02






それは朝から土砂降りの雨が続く月曜日のことだった。

午後七時。
職場近くの街路を雨に濡れながら歩いていた俺は、前へ進む気力も無くなり道端に座り込んだ。

手元には鞄、中身は何より大事な企画の書類…だったもの。
今となっちゃこんなもん、ただの紙屑でしかねえ。
早朝の会議でこれ以上無いくらい致命的なミスを指摘され、一ヶ月寝る間も惜しんで作成したのに、たったの十五分で誰にも見向きもされなくなった失敗作だ。

「…ちくしょう…」

視界が滲む。
今の職場に赴任してから、一度もミスなんかしなかったのに。
悔しさと情けなさに滅入っていた俺は、頭上の雨が止んだことに、一瞬気が付かなかった。


「お客さま」

重い頭を上げると、中学生らしき男がビニール傘を差し出しながら俺のことを見下ろしていた。
珍しいものを見付けた野うさぎの子供みたいな目をしている。

「…営業時間外ですよ」

躊躇いながら、そいつは俺の頭の少し横に指を差した。
ぶっきらぼうな口調ではあるが、少し声が上擦っている。
俺を意識しながらわざと興味無い振りをしてるらしい。
泣いているのを見られたくなくてこっそり袖で目を擦った。

「…俺は客じゃないんだ」

後ろの建物が喫茶店だってことに今気付いたくらいだ。
じゃあ何してるのかと聞かれても当然返答に困る。
泣いてたなんて言えねえ。
電車に乗り遅れたとか適当に嘘をついたが、本当は駅になんかまだ向かってすらいなかった。

「そうですか」

嘘だ、と言いたげな顔。
それでも素直に頷いた野うさぎは俺を立たせて店を開け、さっさと中に入って行ってしまった。

「…な、何やってんだお前」

「もともと僕、用があってここに来たんです。文句言われる筋合いありませんから」

…可愛くねえガキ。
行くところもねえし扉に背を預け防水加工の腕時計を見る。
会社を出たのが六時前だったから一時間半は外にいる計算だ。
寒い。思わず腕を摩る。

「何やってんです。さっさと中に入ってください」

「わ、…と、ちょ、馬鹿!」

突然ドアに背中を押され、危うく倒れるところだった。
店名の書かれたエプロンを着けた野うさぎに店内へと引っ張られ、無理矢理席へと座らされた。
こいつ、中学生じゃねえのか。

「これ。タオルとメニューです」

「……コーヒーばっかりだな」

「マスターがお好きですからね。あなた、いつもこういうお店では何を頼むんです?」

「行かねえ。紅茶飲むなら自分で淹れた方が美味いからな。でも、お前がどうしてもって言うなら…ミルクティーが良い」

「はあ。ホット限定ですからね」

苦笑し肩を竦めると、野うさぎは慣れた仕種で湯を注ぎ、ヤカンを火に掛け始めた。

一旦会話が止まると、頭の中では早朝の会議でのことが映像として何度も繰り返されていた。
口元に嘲笑を浮かべながらミスを指摘する上司の愉悦に満ちた顔、会議室に広がる失笑、俺以外には誰もミスをしない完璧な会議。
くそ、忘れたいのに。

そのせいで紅茶を受け取るとき、一瞬だけ躊躇してしまった。
何もかも押し流すように、紅茶を喉に流し込んだ。
無駄な甘味と渋味に舌を刺激され思わず眉間にシワが寄る。

「…どうですか?」

「不味い」

「はは。そうですか」

視線を上げると、あいつは暖かい表情で俺を眺めて微笑んでいた。
だめだ、蕩ける。
不意に鼻の奥がつんと熱くなり、思わず顔を伏せた。

「…飲んだら呼んでくださいね。僕、ヤカン洗ってるんで」

そう言って奥に引っ込もうとした手を掴んで引き寄せ、捕まえて、腕の中に閉じ込めた。

「っと…何ですか急に」

「悪い。こうしててくれ」

「…あー……どうぞ」

あいつが俺の頭を撫でる。
年下相手に何縋ってんだと理性の叱責が聞こえたが、無視する。
あいつがチラッと俺の顔を見て、ハンカチを貸してくれた。



「なあ、お前さ」

二人で一緒に喫茶店を出たとき、野うさぎの声が聞きたくて、つい口を開いていた。

「…何で、見ず知らずの俺なんか入れてくれたんだよ」

視線が合わせられない。
目の前で泣いた羞恥からなのか、違う恥ずかしさからなのか。
ほら見ろと理性が俺を詰った。

「…理由なんてありませんよ」

なんだ、少し残念。
じっと見つめてたら苦笑されて、恥ずかしくなった。
変な奴と思われたかも知れない。

僕はこちらなのでと指差した方は電車通勤の俺とは逆方向だ。
別に残念だなんて思ってねえぞ。でも…また会いたい。
気持ちを込めて、またな、と。
あいつはほんのり頬を染めた。

「ええ。また」


雨雲を押しのけて顔を出した月。
まるで今の俺の心だ。
詩人にでもなったような気持ちに戸惑いながら、それでもこの胸の暖かさは手放したくなかった。




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