小説

振り返れば明日



「かやぁー、もえぎのかーやぁー」


夏の空に溶けていくような澄んだ声。柳が青く、風に揺れ動く。手甲脚絆、草鞋で地を鳴らし、半てん姿の男が天秤を担いで江戸の町を歩いていた。

「かやぁー、もえぎのかーやぁー」

良く通る長い尾が引く呼び声は、一声が終わるまでに民家三軒は越える。四十を越えた男が出したとは思えない美声が、行き交う人々を振り向かせていた。
高い湿度は男の額に大粒の汗を浮き上がらせる。菅笠を被り、声を張り上げる男の元へ、老婆がゆっくりと近付いてきた。

「あぁー…ひとつ下さいな」
「毎度ー!」

男は額の汗を拭い、天秤を下ろす。店の紋が入った箱から包装された蚊帳を取り出した。

「娘がね、孫をつれて帰ってくるんですよ。それでひとつ買っておこうかと…」

老婆は男に代金を払いながら、幸せそうに顔を弛ませた。

「近頃は勝手に虫を退治してくれる便利な物があるようですが……私は電気も薬品も使わない蚊帳が一番ですわ」

包装された蚊帳を抱えた老婆は頭を下げ、またゆっくりと去って行った。



天秤を担ぐ男の横を自動車が通り過ぎる。男が持ち前の美声を上げると、拡声器を使った客寄せの声がそれを掻き消す。
男は十六の頃から江戸の行商人として蚊帳売りをしていた。夏の訪れを知らせる風物詩の一つである蚊帳売り。数年前までは数人いたのだが、今はもうこの男ただ一人となっている。
昔、江戸は水の都とも言われ湿地帯も多い事から蚊が多く、蚊帳は重宝されていた。他の虫対策としては、陶器におがくずなどを入れてくすぶらせ、それを虫除けとしていた。その為「おがくず売り」という行商人がいたのだ。
天人が襲来し、江戸の生活環境ががらりと変わってしまった今、蚊帳もおがくずも売れなくなってしまった。男の知人はおがくず売りを廃業し、田舎に帰って農業を始めたという。

男は一休みしようかと公園の中に入った。子供達が汗を掻いて遊んでいる。中には携帯ゲームをしている子供がいた。わざわざ外に出てまでする事か、と思いながら長椅子に腰を下ろした。
水筒に入れた冷たい茶をひと飲みし、空を見上げる。飛行船がターミナルに向かって飛んでいた。ふと、ブランコの方を見てみると、子供ではなく、サングラスを掛けた男性が乗っていた。ぼんやりと虚空を見つめる男性を男は知っていた。水筒を手に立ち上がる。

「長谷川さん、どうしたんだい?」

男は茶が入ったコップを差し出す。サングラスの男性は一瞬吃驚したように目を見開くが、知り合いの男だと分かると、力無く笑いコップを受け取った。

「何、まただよ」

親指を立てて自分の首を切るように横へ滑らす。そして茶を飲み干し再び前を見た。

「つまらない話、聞いてくれるか?」
「俺とアンタの仲じゃないか」

男性の肩を叩き、隣のブランコに座った。鎖が揺れる度にキィー…キィー…と小さく甲高い音が寂しげに響く。
男は長谷川と言う男の愚痴を良く聞いてやっていた。初めての出会いは冬、蚊帳が必要ない季節は豆腐を売り歩いていた。仕事が終わり、馴染みのおでん屋に入ったところ、酒を呑んでいた長谷川と一緒になったのだ。この時も働いていた職場から解雇を言い渡された後だった。

「行商人なんて時代遅れだって言われるよ。カミさんに迷惑ばかり掛けて…一家の大黒柱が腐り掛けてんだ」

男は行商人という仕事が、時代遅れの商売方法だとは充分に分かっている。しかし、長年やってきたこの仕事を止めたくはなかった。何より、突然やってきた異人の手によって変えられた世の中に合わせたくなかった。
天人が持ち込んだ技術は凄まじかった。ボタンひとつで遠く離れた地で販売する物を買うことができる機械。歩いて何十日も掛かった距離が、ほんの数時間で行くことができる乗り物。便利な世の中になるに連れ、廃業していく産業は多かった。
いくら社会が物の豊かさに奔走しようとも、心の豊かさがなければ幸せなど掴める筈はない。

「すまない。いつの間にか俺の愚痴になってしまったな」

自嘲めいた笑いが男の口から洩れる。長谷川は静かに首を横に振り、男を見据えた。

「アンタはえらいよ」
「なんでだ。時代に付いて行こうとしない、俺はただのひねくれ者さ」
「自分の信念貫いてるじゃないか。時代の強風を吹き付けられても倒れない立派な大黒柱だ」

その言葉に、男は清々しい声を上げて笑う。

「ありがとう。なんだ、逆に俺が励まされてしまった。なんなら長谷川さん一緒にやるか?蚊帳売りというのは本来二人一組でやるもんなんだ」
「誘いは嬉しいが、江戸を歩き回る程の体力はない。気持ちだけ受け取っとくわ」
「そうか」

コップを受け取った男は立ち上がり、肩を鳴らして背筋を伸ばす。

「もう少し行ってくるわ。早く嫁さん安心させてやれよ」
「ハハハ、そうだな」

困ったように眉尻を下げて笑う長谷川に別れを言い、再び江戸の町を歩き出した。



陽が暮れて男は帰宅した。晩御飯を作っているらしく、台所から良いにおいがただよう。男の妻は日中、大江戸スーパーでレジ打ちをしていた。大江戸スーパーといえば、行商人の商売敵とも言える大規模小売店だ。しかし、収入が少ない男が文句を言える立場ではない。むしろ働いてくれる事に感謝をしていた。
男は畳の上に腰をおろし新聞を広げる。そこへ、七歳になる一人息子が小さな箱を抱えて寄ってきた。

「父ちゃん、カードしよう!」

男の返事を待たず、息子は颯爽とカードを広げ始めた。
息子が言う「カード」とは、トレーディングカードゲームのことだ。集めたカードを組み合わせ「デッキ」というものを作り、二人以上で対戦を行うゲーム。中々、頭を使うゲームで今、子供達の間で人気を博していた。
男は新聞を置き、数枚のカードを手に取る。

「良いが…ソーゴ・ドS・オキタV世は禁止だぞ」
「えー、なんでー?」
「鬼の土方は仏にされるわ、山崎のチェリーは消されるわ」
「父ちゃん、そういう場合は、近藤局長カードのレベルを下げてゴリラに戻すんだ」

あえてカードのレベルを下げるという戦術もあるんだ、そう息子が父に教えていると、台所から「ご飯よー」という声がした。

「あぁー!ハンバーグだ!やったー!」

机に並べられる食事を見て、息子は嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。机が揺れ、食器がカチャカチャと鳴る。男は眉を潜めて「止めなさい」とはしゃぐ息子を窘めた。
天人が来てから食文化も変わってしまった。美味しそうにハンバーグを食べる息子だが、漬け物には手を出さない。ハンバーグのように柔らかいものばかり食べていては噛む力が損なわれ、顎の筋力が衰える。だから最近の子の永久歯は歪んで生えてくるのだ、という歯医者の先生の話を思い出した男は息子に「漬け物も食べなさい」と言った。



夕食を終えた男は新聞を読んでいた。めくっていくと経済面が出てくる。大手自動車会社の業績云々、新商品の紹介。男にとって気になるのは、蚊帳作りの材料となる麻などの繊維が値上がっているかいないかだ。
粗方読んだ新聞を畳の上に置く。男の妻が来て机に湯飲みを置いた。

「向かいの旦那さん、出世して部長になったんですって」

またその類の話か、男の眉根が中央に寄った。
男は時代の波に乗っている者に対して嫌悪感を抱く。それは目まぐるしく変わる時代に取り残されている自分が抱く、ただの嫉妬心だという事は分かっていた。
妻は悪気があって言ったわけではないのだろう。男は「頑張っているんだな」と短く返した。


台所で食器を洗う音がする。襖の向こうで息子が小さな寝息を立てていた。
男は机に肘をつき、茶をすする。玄関にある黒塗りの箱を見た。今日の売り上げは蚊帳ふたつ。全く売れない日もある。もうこの商売に幕を閉じる時がきたのかもしれない。
男は静かに湯飲みを置いた。家族の為にも転職を考えなければならないな、そう思ったその時、息子の通学かばんから出ている一枚の紙が目に入った。
特に何も考えず、それを手に取る。折り畳まれていた紙を広げてみると作文のようだった。覚えたての汚い字が長々と連なっている。
題名は「ぼくのとうちゃん」父の日に書いた作文が返ってきたのだろう。男は興味深げに読み始めた――が「読む」より「見た」方が早かった。長々と連なっていた字は「作文」になっていなかったのだ。
作文用紙いっぱいに「すきだ」「りっぱ」「えらい」「つよい」恐らく息子が知っている全ての誉め言葉が並べられていた。男は思わず噴き出す。一生分誉められた気がした。
もう一枚の用紙には天秤を担いだ父親の絵が描かれていた。その横にもう一人、天秤を担いだ人物がいる事に気付き、一体誰だろうと男は首を傾げる。天秤棒の両端を良く良く見ると、箱の中に四角いものがたくさん描かれていた。箱の表面には「かーど」と書いてある。
この人物は息子自身なのだと分かった。それと同時に涙が頬を伝う。まさに男の夢である光景がそこにあった。



次の日、男は町には出ず、家の中にいた。息子は学校、妻はパートに出掛けている。
畳の上には山のように積まれた資料、机いっぱいに紙を広げ筆を走らせる。江戸の町を歩き回る行商人として、男はこの激動の時代にでも売れる物を考えていた。
時代の風は、不器用な男の背中に向かって吹き付ける。「今」を渡り歩こうとする男は「明日」を見ていた。




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