夏に消ゆ


今日も日射しはじりじりと、脳天に突き刺さるほどにまぶしく、痛い。
蝉は短い夏を精一杯謳歌している。まだまだ長い夏を過ごさねばならない者からすれば、イライラするほどに。
暑くて何もやる気がおきない。用具倉庫に行くことさえ億劫だ。我ながらあり得ないことだと思う。
伊作は、熱中症患者が出たと言って、医務室にずっと缶詰めだ。この暑さだ、屋内にいても危ないのだろう。ろ組のふたりは実習に、い組のふたりもどこかへ出かけたらしく、朝からいなかった。しんべヱと喜三太がおつかいに行くと言っていたので、もしかしたら仙蔵もその付き添いかもしれない。文次郎はどうせ鍛練だろう。だから今、六年長屋には俺ひとりしかいない。人口密度は限りなく低いのに、暑い。

文次郎も、鍛練に行くなら俺も誘えばいいのに。でも暑いから、本当に誘われたら断っていたかもしれない。何にせよ、俺を置いて行ってしまうんだから、つくづくあいつは鍛練バカだ。

しばらく無駄にごろごろと床に転がっていたが、一念発起して長屋の周りに打ち水をすることにした。多少は涼しくなるかと思い、井戸で汲んできた水を、ぱしゃぱしゃと地面にかけていく。
だが、かけた端からあっという間に蒸発してしまい、残ったのは蒸し暑さだけなような気がする。四方から響く蝉の声が、バカにされているように聞こえてきてイライラを増幅させる。

「ちくしょーー!!」
「ぶわっ!」

やけになって、残った水をぶちまけたら、向かい角からやってきた誰かに思いっきりかかってしまった。

「うわっ、すまん、大丈夫か!? ……って、何だ、文次郎か」
「何だじゃねーわバカタレ!!」

制服姿の文次郎は、ずぶ濡れで頭から雫を垂らしている。涼しそうでいいなあ、などと暑さでボケた頭は考えてしまった。

「悪かったって。謝ってんじゃねーか」
「それのどこが謝っとる態度だ!」
「うるせーな、お前はもっと水をかぶって頭冷やした方がいいんじゃねーのか!?」
「何だとー!?」
「ああ、やるか!?」

俺だって、多少悪いと思ってないこともなくもなくもないのだが、文次郎が相手だとどうにも素直になれない。
売り言葉に買い言葉で、すぐに手が出て喧嘩になった。
だが、あまりの蒸し暑さに、比較的早く今日の喧嘩は終わった。暑さに戦意が喪失したのだ。負けたのは文次郎にではなく、暑さにだ。
のろのろと日陰に入って座り込むと、文次郎も俺の横に腰を下ろした。

「余計な汗かいちまった……」
「お前が余計なことを言うからだ」

再びカチンときたが、なんだか言い返す気力さえ湧いてこなかった。

「ああ、それでいいよ」
「投げやりだな」
「暑くて、もう……」

くたりとうなだれていたら、文次郎が唐突に言った。

「留三郎、避暑に行かんか?」
「避暑?」
「裏々山にいいところを見つけたんだ」
「裏々山ぁ?」

正直、裏々山など庭のようなもので、目を閉じていても歩けるほどに熟知している。今更、避暑といえるほどの何かがあるとは思えない。

「川ならあったが……」
「まあいいから、ついてこい」

なんとなく楽しそうな文次郎の後について出掛けることになった。

実習やら鍛練やら、委員会の木材調達やらで、ちょくちょく訪れる裏々山。
勝手知ったる山は、いつもと何も変わらない。ただ、緑に覆われている分、直射日光を遮って、心なしか学園内よりも涼しいような気はする。だが、それなら裏山でもどこの山でも同じだろう。
文次郎は迷うことなく、川の上流にある沢の方に向かっている。確かに、あそこも涼は取れそうだが、急な傾斜を越えねばたどり着けない上に、岩が滑りやすくて厄介だ。しかも流れが急なので、あまり水遊びには適していない。

だが、文次郎は沢へ降りる分岐点を素通りし、もっと山奥へと足を進めていく。
これ以上上流には、川の源流と言われる小さな泉しかない。そこから流れる清水は、地面に吸い込まれて地下を通り、先ほどの沢のあたりでやっと地上に現れるのだが、泉は湧き水程度で、水浴びできるほどの大きさはない。
文次郎の言う避暑に、水は関係ないのか? 鍾乳洞でも見つけたのか? そう思って、ただ文次郎の後をひたすらついて行った。

山の中腹あたりまで来たところで、文次郎が脇道に入った。道といってもけもの道で、両側から草が生い茂っていて、今にも埋もれてしまいそうだ。
その草をかき分けて進む。俺はあまり来たことのないところだが、この先には鬱蒼とした森しかないことはわかっている。

「こんな所、何もねぇだろ。何かあるのか?」
「まあいいから。ついてからのお楽しみだ」

文次郎は足取りも軽い。
教えてもらえないまま、一刻ほど道なき道を歩いて、なんとなく水の音が聞こえてきたような気がしたと思ったら、それは急に現れた。

巨木が数本重なりあうように倒れており、その向こうに明るい黄土色の岩がそそりたつ断崖絶壁があった。木を跨いで越えると、岩壁の真下には深い青緑色の水を湛える小さな川が流れているのが見えた。
川の上流、左手に目をやると、やはり黄土色の岩が積み重なって、高さは低いが立派な滝を形成している。そのすぐ下は、小さくても滝つぼというべきなのか、えぐれて深くなっているらしくエメラルドグリーンの水が滔々と湛えられている。右手にも左手にも、川底に大きな穴でも開いたかのようにえぐられて深くなっている部分がある。俺たちのいる目の前あたりでは、底に岩があって浅くなっているが、また右手方向に流れていくにつれ、深さを増し、岸を削り断崖を作り上げていったようだ。

「……こんなとこ、あったっけ?」
「今までは岩と木々で隠れていたようだな。この間、嵐が来ただろう、どうやらそれであの岩が転がり落ちて、木をなぎ倒したようだ」

文次郎が得意気に説明する。指差すその先を見れば、泥のついた巨大な岩が、左手の川岸の真ん中あたりに鎮座していた。

「まだ小平太にも見つかっとらんからな、穴場だぞ」
「そりゃ貴重だな。貸し切りか」
「そういうことだな」
「すげぇな……」

それしか言葉が見つからない。
水面はきらきらと輝いていて、澄みきって透き通り、底までのぞける。
深さはまちまちであるようだが、浅いところは岩の黄土色や透明に近いような淡い水色、深いところは青碧色や翡翠、浅葱、あるいは紺青、群青と様々に色づいている。水というものが、こんなにも色鮮やかであるなんて、初めて知った。
吹き抜ける風も爽やかで心地よく、学園内で聞くとあれほど耳障りだった蝉の大合唱さえ風流に聞こえる。

水辺まで下りて、手を浸してみた。冷たい水が、山登りで火照った手に染み渡るように冷たくて気持ちがいい。
文次郎が、忍足袋を脱いで袴の裾をまくっている。

「え、入るのか?」
「そりゃそうだろう」

当然のように文次郎が言う。そして袴を膝の上までまくり上げると、ざばざばと水に入っていった。

「おおっ、冷てえな!」

珍しくはしゃいだような声を出した文次郎は、慎重にすり足でゆっくりと歩を進めていく。
俺も続いて忍足袋を脱ぎ、袴をまくって川に入った。
川底の岩は、コケなどは生えていないが少しぬるついて滑る。だから文次郎がすり足だったのだなと納得し、同じように俺も慎重な足運びで文次郎の後を追った。
文次郎は、岸から5メートルほどのところで立ち止まっていた。ここまではせいぜい脛の中ほどくらいの深さしかなかったが、この先は川底の岩が途切れ、青碧の水は如何にも深そうで、底は見通せるがかなり下に見える。
文次郎はじっと滝の方を見ていた。足を浸しただけでは物足りないらしい。

「着替え持ってくりゃよかったなあ」
「別に俺しかいねぇんだし、脱いで入れば?」
「それもそ……留三郎!」
「うぐっ!」

急に文次郎に頭を押さえつけられた。バランスを崩して危うく転びそうになったところを、なんとか踏ん張る。

「てめぇ、何しやがる!」
「蜂、蜂だ!!」
「へ?」

顔を上げると、黄色い大きな蜂が俺の目の前にいた。羽音がブーンと耳の傍で聞こえる。

「うわぁ!!」
「と、留、てめっ!」
「ま、待……!」

避けた拍子に文次郎に体当たりしてしまった。倒れそうになった文次郎は、咄嗟にだろう、俺の腕に掴まった。だが、俺も元々崩しかけていた体勢で、ふたり分の体重を支えることはできず、引っ張られるままに、ふたりして深い方の川にざぶんと倒れた。
幸いというべきか、落ちたところに結構な深さがあったので、どこも打ったりはせずに済んだ。がぼがぼともがいて川面から顔を出す。すぐ近くで文次郎も同じようにぷはっと顔を出した。

「てめぇ何しやがる!」
「それはこっちの台詞だバカタレ!」

一発殴ってやらねば気がすまない。そう思って胸倉をつかもうとしたのだが、近寄ったところでまた、ブーンという羽音が至近距離で聞こえた。

「うわ、ちくしょ」

必死で避けるが蜂は追いかけてくる。なんで俺ばかり、と思ったが、俺は落ちた拍子に頭巾が外れてしまい、黒い頭を水面に晒しているのだった。文次郎は頭巾をしたままなので黒い部分はわずかしかない。蜂は、黒いものを敵とみなして攻撃してくると聞いたことがある。
外れた頭巾は首に引っかかっているのだが、焦ってすぐには巻けないし、泳いで逃げても空を飛ぶ蜂から逃げ切れるわけがない。となると残された逃げ場は、

「留、潜れ!!」

文次郎が、俺が考えたのと同じことを叫んだ。文次郎の指示に従うようで癪だと一瞬思ったが、他に何も思いつかないので俺は大きく息を吸うと、がぼっと潜った。
水の中で目を開け周りの様子を見ると、文次郎も同じように潜っていた。ちょいちょいと滝つぼの方を指差す。そちらに行けということらしい。俺は川底を這うように、潜ったままで滝つぼの方へ泳いだ。
川底は、大きな岩が敷き詰められたように並んでいる。ところどころ、岩に大きな穴が開いているので深さがまちまちになり、川面は色とりどりに見えるらしい。

滝つぼ近くは、水圧で底がえぐられるせいか、深くて足がつかないほどだ。
もういいだろうと浮かび上がって、水面に顔を出した。
大きく息を吸いたいところだが、若干息をひそめ、蜂が追ってきていないかどうかを確認する。幸いにも、蜂はどこかへ行ったようだった。安心して深呼吸する。

文次郎も水面に顔を出した。俺と同じようにあたりの様子をうかがっているので、「いねぇぞ」と教えてやると、やはり同じように大きく息を吸った。

「結局全身ずぶ濡れかよ」
「誰のせいだ」
「俺じゃねえぞ。まあこの陽気だ、すぐ乾くだろう」

制服を着たままでは、服が水を吸って、身体に絡みついて泳ぎづらいが、訓練しているので動けないわけでもない。
それでも重いし、ずぶ濡れのまま山道を下って帰るのも嫌なので、岸に戻って、一旦脱いで干して来ようとしたのだが、

「留三郎」
「ん?」

文次郎に呼び止められ、腕を掴まれた。
何だと問う間もなく、潜っていく文次郎に、水中に引きずり込まれる。
驚いて目を閉じてしまった俺の唇に触れるものがある。はっと水中で目を開けると、思った通りそれは文次郎の唇だった。目が合った文次郎は、目を細めて笑うと俺の唇を甘噛みした。誘われるように、俺は小さく唇を開く。小さな泡がいくつか俺の口から零れ、代わりのように文次郎の舌が侵入してきた。

「っあ、ふあ……」

口内に溜まっていた空気が一気に漏れ、大きな泡になって水面へ上っていった。文次郎は気にも止めず、俺の舌を追いかけてくる。ちょっと待て、と避けようとするが、衣服が邪魔で動きづらい。文次郎は俺の後頭部をがっちりと抱きかかえるように固定した。
もう、逃げられない。もう一度ぎゅっと目を瞑り、文次郎の襟元を握った。

「ぅあ、ふっ……」

流れ込んでくるのは、文次郎の唾液なのか川の水なのか。苦しくなってきて、生理的な涙が出たが、バレはしない。
がぼっとまたひとつ、肺から大きな呼気が漏れた。ヤバい、苦しい。そろそろ限界だ。
文次郎を引き剥がそうとすると、あっさり離れた。俺は急いで水面に上がる。ぷはっと頭を出し、大きく息を吸った。ひと息遅れて文次郎も顔を出した。はあはあと胸で呼吸をする。

「てめぇ、殺す気か!!」
「お前がこのくらいで死ぬようなタマか。鍛練が足りねえんだよ!」
「どんな鍛練だ!」
「肺活量を鍛える鍛練に決まってるだろうが!」
「水遁の術だって、息は止めねぇだろ!」

だが文次郎は、ふっと笑って、

「戻ったな」
「何が」
「お前が」
「俺が? 戻ったって?」
「暑くてバテていただろう。お前はそのくらいでなくちゃ、張り合いがない」

それは学園で、打ち水を文次郎にかけたあたりのことを言っているのか。確かに俺は、何もやる気がおきなくてバテバテだったかもしれない。

ということは、ここに来たのは、単に俺を連れて来たかったというだけではなくて、俺の体調を気づかって、ということでもあったのか。

ヤバい、顔が赤くなる。
何でこいつ、さらっとこういうことするんだ。

恥ずかしくて、潜って誤魔化そうと思ったのだが、ふとひとつ思いついた。

「……文次郎」
「ん? どわっ!!」

がばりと水しぶきを飛ばしながら文次郎に抱きつくと、そのまま体重をかけるように文次郎を川の中に沈めた。水中でじたばたと暴れている文次郎に、抱きついたまま頭を抱え、唇を重ねる。さっきやられたことをなぞるように、唇を軽く食み、隙間から舌を挿れた。 ほんの一瞬、驚いたように目を見開いた文次郎だったが、すぐに閉じて俺の舌を受け入れ、絡める。ごぼ、と互いの口から空気が溢れた。
こちらが主導権を握ろうとすると、口内に流れ込んでくる水が邪魔で、思うように舌が動かない。もっととついがっつくような形になってしまう。

「も……文次……」

呼んだつもりの声は、言葉にならずに泡と一緒に消えていった。
がばがばと、文次郎の口から大きな泡が溢れる。相当苦しいらしい。さっき俺も体験したばかりなのでよくわかる。
抱き締めていた力を抜くと、ばっと俺を振りほどいて水面へ浮かんでいった。獲物を取り逃がしたような気分で、俺も浮かび上がる。
川面に顔を出すと、ぜいぜいと荒い息を整えている文次郎ににらまれた。だが、何も文句は言われない。さっき自分で「肺活量を鍛える鍛練が足りない」などと言ってしまった手前、俺に何も言えないのだ。
にやりと笑った俺を、悔しそうに一瞥すると、

「……冷えてきた。上がるぞ」

すいっと岸に向かって泳ぎ出した。

「怒るなよ」
「怒ってねえ!」

明らかに怒り混じりの声も愛おしい。後ろから、ぷかぷかと泳ぐ後頭部に、ばしゃばしゃと容赦なく水をぶっかけてやった。
始めのうちは無視を決め込んでいた文次郎だったが、すぐに俺の挑発に乗ってきた。くるりと振り返りながら、その反動で手を大きくかき、ざばっと水を浴びせてくる。

「てめー、人が大人しくしてりゃあ調子に乗りやがって!」
「お前が大人しくしてるとかってタマかよ!」
「うるせえ、お前は一度川底に沈めてやらんと気がすまねえ!」
「奇遇だな、俺もそうだ!」

足のつく浅瀬まで戻ると、互いに水をかけあった。
罵りあう声が、岩壁に反響する。
だんだんエキサイトしてきて、川面に浮いていた流木を投げつけたりし出すと、手が出るのは時間の問題だった。
足場が悪いのでいつものような動きというわけにはいかないが、そもそもそこまで本気の殴りあいではない。じゃれ合いの延長みたいなものだ。
だが、それだけでもものすごく楽しい。
俺たちはやっぱりこうでないとなぁと思う。さっきの文次郎の言い様ではないが、こうでないと張り合いがない。
文次郎も、口に出している言葉は剣呑だが、やはり笑っていた。同じことを考えているとわかって、また楽しくなる。

「ぶへっくしゅ!」

突然、大きなくしゃみが出た。文次郎は一瞬驚いたような顔をしたが、勝ち誇ったように笑うと、

「軟弱だな。鍛練が足りんのだ」
「……うるせー」

文次郎が手を伸ばしたので、素直にそれに掴まり、ふたり川から上がる。

気がつけば日は傾き、空は赤く染まり始めている。
耳をすますと、秋の虫の声があたりに響いていた。


終わり

2013.09.29

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咲花観月堂のあづさわさんのご好意で、大好きな水中犬猿をリクエストさせて頂きました…!

憧れのあづさわさんに書いて頂いただけで感激なのですが、さらににキレイな情景、透き通る水中描写…わちゃわちゃと仲のいいリバ風味犬猿…移りゆく季節感…さりげなく虫。
ちょっと理想的過ぎて眩暈がしそうです…!( *´`*)

うまく言えませんが、あづさわさんのお話は人物の描写に動きがあっていつも素敵だなあと思います。

水も滴るいい犬猿、ありがとうございました…!!!





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