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それはまるで嵐のような。
「はぁ!?子どもを預かるぅ!?」
「そう」
目玉ひん剥いて驚く私とは反対に、目の前の母はにこやかに答えた。持っていたコーヒーが少しこぼれてテーブルに染みを作る。ティッシュでそれを拭き取りながら母に尋ねた。
「なんでそんないきなり…」
「あら、いきなりじゃないわよう?結構前から決まってたことだもの」
「私は全くの初耳ですがね」
拭き取ったティッシュを丸めてゴミ箱に放る。「行儀わるい」と母がたしなめた。
「そのご夫婦が揃って仕事で長いこと留守にするんですって。だからその間だけ預かって欲しいって頼まれたの」
湯気をくゆらせながら呑気にコーヒーを飲む母に呆れて物も言えない。
いくら私が高校生の小娘だからってそういう事はちゃんと家族の了承を得るものではないだろうか。
「で、あなたの後ろにあるトランクは何ですか?」
母の後ろにあるのは、昔旅行へ行ったきり久しく見てなかった大きなトランク。それが2つも。
「お父さんの出張先に付いてこうと思って」
「はぁ!?」
何度声を上げさせる気だろうこの人は。いや、「うふふ」とかちょっと照れ
てんじゃないわよ万年恋人夫婦が。
「ほら、お父さんって一人じゃ何も出来ないじゃない?それに寂しいかなぁって」
「一人残される娘の気持ちは考えなかったのですか」
私が生まれた今でも付き合い始めのようにお熱いこの夫婦。両親がこんな様子だと逆に子どもは冷静になってしまう。
「菜緒一人じゃないわよ。今日から景吾くんが来るから」
「え!?今日!?っていうか私が面倒みるの!?」
「そうよー?いつか子どもが出来た時の為の訓練だと思えばいいの」
「何年先の話よ…!」
ダメだ。埒があかない。ため息をついて頭の中を整理する。この家に生まれて育って学んだ事は『あるがままを受け入れる』。
聞こえは良いが、結局は無茶苦茶な両親(おもに母)の決定事項を受け入れる気合いと度量が必要なんだ。
「で、その景吾くんはいくつ?」
「たしか今年幼稚園に入ったばっかりじゃなかったかしら」
「ふぅん」
なんだ。まだ幼稚園なんだ。可愛い盛りじゃん。
「菜緒も会ったことあるじゃない。ほら、前に遊びに来てくれたご夫婦いたでしょ」
「あー、あのやたら綺麗な…」
「旦那さんがお父さんの会社の社長さん」
「はぁ!?社長さんが何でウチなんかに遊びに来たの!?っていうかお父さんが何者!?」
「昔馴染みなんだって。だから今回もあちらのご夫婦が変な所に預けるよりウチの方がよっぽど信頼出来るからって」
親しいが故か、社長命令が故か。どちらでもある今回の依頼は諦めて受け入れ態勢をつくるしかない。
「景吾くんは何時頃来るの?」
「もうそろそろじゃないかしら…いけない、私も出ないと」
「ん、行ってらっしゃい。お父さんによろしく」
「はーい、行ってきまーす」
ゴロゴロと重たい音でトランクを引きずり、嬉々として父の元へ向かう母の背中を見送った。
静かになった部屋を見渡し、袖を捲る。
「…さて、と。片付けでもしますか」
「フン。小さい家だな」
「えっ」
声がした方を見ればそこには泣きぼくろが印象的の生意気そうな少年。いつの間に上がり込んだんだろう。
「僕、どこの子?」
「『僕』なんてガキ扱いするな。おれは跡部景吾。話は聞いてるはずだ」
ぞんざいに言い放つと景吾くんはどかりとソファへ座った。呆気にとられていた私も慌てて目線を合わせるように屈む。大切なのは気合いと度量だ。
「私は松月菜緒。これからよろしくね景吾くん」
にっこり笑って自己紹介。自分では最高の笑顔で言ったつもりだったのに、目の前の少年は不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
「慣れ慣れしく名前を呼ぶな。おれの事は『景吾様』と呼べ」
「は…」
「頭の悪い女だな」
ため息を付き、より眉間に皺を寄せると、顎を上げて言い放つ。
「おい、腹が減った。何か作れ」
生意気を通り越したその態度が自分より年下のものとはとても思えない。目の前の状況を理解出来ないまま台所へ向かう。
冷蔵庫の中身を確認しつつ後ろの少年に尋ねてみる。
「景吾くん何か食べたいものある?」
「……」
無視ですか。
口が引きつるのを抑えて改めて後ろの少年に尋ねた。
「『景吾様』は何か食べたいものはおありですか?」
慇懃無礼なほどの馬鹿丁寧な口調。怒らせるだろうかと一瞬心配したがそれも杞憂に終わった。
「おれの口に合うとはとても思えないが、まあ何でも食ってやる」
「…りょーうかーい…」
私…この子と上手くやってける自信がまっっったくない。
力任せにみじん切りにした玉ねぎを炒めて、ご飯と鶏肉を投入。ケチャップで味付けして卵で包む。お手軽でチビッコにも絶大な人気を誇るオムライス。これなら文句はないだろう。
「質素な食事だが、食べられないこともない」
「…有り難き幸せ…」
ははは・と乾いた笑顔を浮かべるしか出来ない。
二人向き合いながら黙々とオムライスをつつく。
…そう、大切なのは気合いと度量なんだから…!
拳を握りしめ、対峙している少年へと視線を向ける。そこで思わず見入ってしまった。
―…小さいのにきれいな食べ方。
目を引いたのはその美しい所作。同い年でこんなにきれいに食べる子はまずいないだろう。気品溢れる動作に育ちの良さが窺えた。
「腹が減ってたら何でも美味いもんだな」
…でもこの口の悪さはどうにかならないものだろうか。
「お前、いつもそんな事してるのか」
食事の後片付けをしていると後ろから声。ジュースの入ったコップを置く音が聞こえた。
「そうだよー。後片付けはちゃんとしないと。あと私の名前は菜緒…」
「そんなものメイドの仕事だろ」
華麗に無視されたセリフに頬が引きつるのも忘れて、聞き慣れない名称にずっこけそうになるのを咄嗟に堪える。
「なにがしたいんだお前」
「別に…」
そうか。この子んちって金持ちだったっけ。メイドがいる毎日なんてごく一般家庭の私には想像も出来ない。
「給料は貰ってんのか?」
「給料?なんで?」
「それは『仕事』だろ。仕事をしたんなら相応のものを貰う。それが常識だろうが」
『常識』。
確かに常識と言えば常識かもしれないが、違うと言えば違う。
「仕事は仕事だけど、『家事』は家族みんなで支えあっての仕事…というか」
うーん。こんなこと深く考えた事なかったから説明がちゃんと出来ない。
洗い終わった食器を拭きつつ、伝わったかなとあまり期待せずに振り返った。
「家族同士での仕事は給料は渡さないんだな」
「場合にもよるけど、家事ではあまり貰わないかもね」
昔は何かお手伝いすると、ちょっとだけお小遣い貰ってたけど。
「ふーん…」
小さな手で頬杖をついて窓の方を向く。
「お前、お人好しバカだな」
…ほんっっとに腹の立つお子様ですこと。
片付けも終わり、しかし特に話す事もなく、景吾くんはソファへ、私はダイニングの椅子に座ってただ時間を持て余していた。
部屋に籠りたいけどさすがに一人にも出来ないし…
聞こえないようにため息を付き、少年を見る。彼はソファの上でいつの間にか寝息を立てていた。
あんな生意気な事言ってても寝顔は子どもねぇ…
毛布を掛けて、その幼い寝顔に頬が緩む。つられて私の瞼も重くなった。
ちょっと寝て、すぐ起きればいいか。
そうして私も睡魔の海に身を投じた。
▼
「…っくしゅ……ん、」
肌寒さに身震いして辺りを見回す。あんなにも暖かそうだった太陽はいつのまにか消えてしまって、すでに暗闇の気配が漂い始めている。
「やば…ご飯作ってお風呂沸かして…」
慌てて立ち上がり、ふとソファに視線を落とす。そこにいるべき存在を確認するために。しかし…
「景吾くん…?」
そこにはただ毛布があるだけだった。見間違いかと思い何度も目を擦る。帰ったのかも、とも思ったが荷物は置いたまま靴だけがなかった。
「うそ…」
一気に血の気が引く。
私の態度が悪かったから出て行ったんだろうか
いやあの子も充分悪かったし
でもまだ幼稚園に入ったばかりの小さい子ども
それにこの辺りの道を知っているんだろうか…
あんなに小さい子が 一人で
「…探さなきゃ!」
上着と鍵と財布を掴んで家を飛び出した。先ほどよりも濃くなった闇の色に更に不安が増す。
「景吾くん!どこ!?」
家の近辺を探すが、誰もいない。
子どもの足でそんなに遠くへは行けないだろうと予測し、もう少しだけ離れた場所まで走る。
「け、いご、くん…!」
息も絶えだえ、足はがくがく。それでも声だけは必死に絞りだす。しかし私の声は、白くなって冷えた夜空に虚しく登るだけだった。
日はとっぷりと暮れ、辺りには本格的な闇が忍び始めている。足も喉もとっくに限界まできていた。
立ち止まり、膝に手をつく。上気した頬に冷たい夜気が刺さった。
「さむ…」
…こんな中に一人で置いておけるわけないじゃない!
再び走り出し、隣町の公園まで来た時に錆び付いた金属が揺れる小さな音を聞いた。
「景吾くん!?」
影が動き、手元からするりと何かが落ちた。
「あっ」
「ニャー」
「…猫?」
猫はひとつ鳴くと、そのまま逃げていった。景吾くんは私が駆け寄るとバツが悪そうに顔を背けたが、構わず視線を合わせて屈む。
「景吾くん」
「…なんだよ」
「無事でよかったぁ…」
「はぁ?」
安心して胸を撫で下ろす。しかし目の前の少年は理解出来ないといった風に盛大に眉間に皺を寄せた。
「怒ってたんじゃないのか」
意外な言葉と、自分の感情に苦笑を溢す。
「怒るよりも心配のが上回ってたよ」
そう言うと景吾くんは形のいい口を歪めて笑った。
「どうせ俺が財閥の息子だからだろ。誰だってそんな家の跡取りに何かあったら心配もするよな」
蔑みめいた視線の中に冷えた感情がチラつく。そこには歳相応の幼い面影は少しもなかった。
「気にするな。お前が咎められることはない」
そう言い私の横を通り過ぎようとする。その瞬間、私の中で何かが切れた。
「おバカ!アンタがどこの子だろうが私は心配したの!そんな理由で心配する人もいるかもしんないけど、ただ純粋に『景吾くん』を心配する人もいるんだからね!」
腕を掴んで正面向かせる。景吾くんの目は大きく開かれていた。
「…ケガがなくて本当によかった」
安心したら緊張の糸が切れて涙腺が緩む。
「お、おい…」
おずおずと小さな手を伸ばしてくる景吾くんを抱き締めた。この子は何を感じ、どれ程のものを溜め込んでいるんだろう。こんな小さな子にあんな目をさせた事がすごく悲しかった。
回された手がきゅ・と私の袖に皺をつくる。
「…心配かけて…ごめん、なさい」
ぽそりと告げられた謝罪の言葉。それはとても小さかったけれど、私にはちゃんと届いていた。
しゅん、と伏せられた長い睫毛の影が頬に落ちる。
「…いいよ。さ、帰ろっか景吾くん」
手を繋いではっと気付く。
「あ、ゴメン。『様』付けるの忘れてた」
「いい。菜緒だから許す」
素っ気なく言い放ったその顔は少し赤みを帯びていて。
『菜緒』
初めて呼ばれた名前に思わず頬が緩む。
「このまま晩ごはんの買い物に行こっか!」
「最初に買っとけよ、段取りわるいな」
憎まれ口を叩いた少年の顔は、会って初めてみせた笑顔だった。
「そういえば何で景吾くん出てったの?」
「……猫」
「猫?」
「さわりたかったから…」
「(それで迷子に…)」
…そんな可愛い理由を聞かせられたら怒れなくなっちゃうじゃないか!
こうして小さな彼との共同生活が始まる。
いらっしゃいませ
可愛いぼっちゃん