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どのくらい泣いたのかもう分からなかった。それ以前にこんなに大泣きしたのなんていつ振りだっただろう。ぐずっ、と大きく鼻をすすると不細工な音が鳴る。指先で目元を、手の平で頬を順に拭いながら視線を景吾くんに向けた。
「景吾くん…?」
掻き抱いた身体からは力が抜け、泣き疲れたのだろう、すうすうと小さな寝息が聞こえる。頬っぺたをたくさん濡らして、まだ目尻に涙を残して。それでもしっかりと掴まれた服が嬉しくて、起こさないようゆっくり立ち上がる。すぐ横のソファに腰を下ろして背もたれに身体を預けた。
とん・とん・とん・と静かな呼吸に合わせて背中をたたくと握りしめていた拳が弛んだ。
すり寄ってきた額から前髪が不格好な形で上がる。起きた時に悲惨な事になりそうだと口元だけで笑って、そっと柔らかい前髪を整えた。また景吾くんの呼吸に合わせて背中をたたく。
私でもまだ抱っこできる。
やっぱり景吾くんは幼稚園児で、そう無意識に考えた私はやっぱりまだ高校生の小娘なのだ。そんな二人に何が出来るものか、ため息をついて柔らかい髪に頬をつけた。
頬を撫でるふわりとした感触と共に違和感が浮かぶ。
(あれ…こんな所まで頭届いてたっけ)
眠って私に身体を預けている景吾くんの頭が前より上にある気がする。曲げている足も、小さい小さいと思っていた手も、何だか前よりも大きくなっている気がする。
(…景吾くんも大きくなってるんだよね)
子どもの成長は早いとよく聞くけれどこんな時に実感するなんて。それに立ち会えた嬉しさと、別れとはまた別の寂しさに襲われる。ずっと小さな子どものままでいて欲しいなんていうのは大人のエゴだなあと苦笑した。
思い返せば不思議な縁だと思う。
片や平々凡々も裸足で逃げ出すくらい平凡な女子高生。片や大企業の御曹司で幼稚園児。全くと言っていいほど接点がない。普段の生活も、年齢も。下手すればかすりもしなかった私達の縁。
いや、かすりもしない事が当たり前だったのにある日突然重なった。出会いは最悪、第一印象なんか怒りを通り越して呆れたくらいだ。
それでも少しずつ景吾くんを知っていって、景吾くんも私を知っていった。
小さな彼に目線を合わせれば今まで見えなかった物、いつの間にか見えなくなっていた物が見えて毎日が発見と懐かしさに彩られて新鮮だった。過ごした時間は短いけれど私にとってかけがえのない毎日だったよ。
ありがとう。
今、君に一番伝えたい想いが胸に溢れてる。
どんなに声を上げて泣いても、どんなに離れないように抱きしめあっても、時間だけは平等に、とても残酷に過ぎていく。
迎えた朝はいつも通り、いや、昨日散々泣いたせいだろうか、景吾くんといれる最後の朝だというのにいつも以上に穏やかな気分で迎えた。
膝の上にシルクを乗せて左腕に景吾くんの体温を感じながら、特に何も話さず二人寄り添ってソファに座る。断続的にカチカチ響く秒針の音を遮るように時々シルクがにゃおんと鳴いた。
ピンポーン
はっとして玄関の方に視線を向ける。
「行こっか」
「…ん」
大きめな荷物を私が持って行って、玄関のドアを開けた。開けた先にいたのは目眩を覚えるほどの美形が二人。着飾っているわけじゃないのに輝いて見える。本当に品のある人というのはこんな人達の事を言うのだろう。
思わず見惚れてしまって、「朝早くからごめんなさいね」と景吾ママが微笑みながら言うまで固まってしまっていた。
「あっ、どうぞ、中に」
「いや、大丈夫だよ」
そう言ってやんわりと手で示しながら後ろの男性、景吾パパが冷たさすら感じる切れ長の整った瞳を柔らかく細めて笑んだ。
(うっ…わ…!)
それがあまりにも綺麗でかっこよくて、でも笑った所は二人とも景吾くんにすごく似ている。やっぱり親子なんだなあと緊張で混乱する頭でそんな事を考えていた。
後ろから、たんっ、と踏み切る音。景吾くんが後ろから飛び出していた。
「おかえり…っ!」
抱き止めた景吾ママが膝を折って小さな彼を抱きしめる。
「ただいま、遅くなってごめんね」
景吾、と酷く優しい声色に少し涙が滲んでいる事に気付く。それに気付いていた景吾くんも「ううん…!」と頭を振った。感動的な場面に思わず視界が滲んできたので、慌てて熱くなってきた目頭を抑えた。
「菜緒さん、急なお願いだったにも関わらず景吾の面倒をみてくれて本当にありがとう」
「この子、気が強いでしょう?だいぶご迷惑をかけたんじゃないかしら」
「そんな事ないです!景吾くん、すごくいい子でした!むしろ私が助けてもらってたくらいで」
お礼を告げる景吾パパに続いてママさんも心配そうな顔を向ける。しかし私の言葉を聞いて安心したように表情を緩ませた。
「…じゃあ、そろそろ行こうか」
「ええ」
お二人のその言葉に景吾くんがハッと私を振り返る。ご両親はそれに気付いて「先に車で待ってるわね」と景吾くんに言い、もう一度私に「ありがとう」と告げて車へと戻って行った。
玄関先、残される二人。
「やっぱり景吾くんのパパとママ、綺麗でカッコイイね」
「まあな」
謙遜も何もない返答には厭味がなくて、どこか得意気な彼に「ね」と笑う。でも何故か言葉が続かなくて、気まずくはないけれど妙な間が空いてしまう。私はつま先を見つめて、景吾くんはコツ・コツ・と地面を蹴る。
「菜緒」
ぽつりと名前を呼ばれて、なあに?と聞き返しながら目線を合わせる。景吾くんにしては珍しく目を伏せてぽつりぽつりと言葉をつむいだ。
「菜緒は鈍くさいし、時々バカだし、おれより年上なんて感じ全然しないけど」
「最後の最後でダメ出しっすか」
えー、と不満の声を上げたら、まあ聞けよといつもの俺様調で言われた。うん、そっちのが景吾くんらしい。
「でも初めて食べた菜緒のオムライスは一番おいしかった」
「うん」
「あ、でも親子丼もハンバーグもケーキも…全部初めてだっけど、おいしかったぞ」
「いつの間にかそんなにいっぱい料理作ってたんだ」
えっとえっと、と小さな指を折って数える姿に、ありがと、と告げる。きっと彼が今まで食べてきた物に比べたら私の料理なんて笑いものだ。それでも「おいしかった」その一言で満たされる。
うん、と頷いた景吾くんの瞳が真っ直ぐに私を見る。そこには何かを決意した色。
「だから今度はおれが『はじめて』、やるよ」
ちゅ・と可愛らしい音が転がって、瞬間的でも柔らかいと分かる小さな唇が私のそれに触れた。突然の事に呆気に取られているとイタズラが成功したように景吾くんが八重歯を見せる。
「また取りにくるからそれまで大事に取っとけ」
いいな、と念を押され反射的にこっくり頷く。満足げに笑ってから、景吾くんは屈んで足元の白い彼に話しかける。
「いいかシルク。おれの代わりにちゃんと菜緒を守れ」
にゃおん。凛々しく使命感を帯びた声でひとつ鳴いたシルクにも同じように笑んだ。軽い身のこなしでひょいと立ち上がって私に手を差し出す。
「菜緒」
朝の日差しを受けた色素の薄い髪がきらきら眩く、そしてそれ以上にきれいな彼に思わずコトンと胸が鳴ってしまった。
伸ばした私の手を引っ張って立ち上がらせようとしてくれたが、上に引っ張る角度が足りなくて少しバランスを崩してしまう。む、と微かに眉を潜めて「くそ、身長か」と呟いたのは聞こえないフリ。
立ち上がって再び向き合う形になる。
「じゃあ、またな」
「うん、またね」
くるりと後ろを向いて、少し離れた所に停めてあるご両親が待つ車へ向かう。その間景吾くんは振り返らないで、ゆっくり歩いて行った。私もシルクも目を離さずに小さな背中が車に乗り込むまで見つめていた。
バタン。
ドアを閉める音が全ての終わりを告げる。それを切っ掛けに車が発車した。どんどん小さくなっていく車に頭を下げる。
ぽろりと頬を伝ったそれは一粒だけ。
「私も、はじめて、だったんだけど」
にゃあん、と鳴いたシルクが私の足元にすりよって、また鳴いた。
ざあ、と風が髪をさらい視界を一瞬だけ覆う。開けたその向こうにもう車の影はなかった。
小さな彼との毎日が終わりを告げた。
それはまだ少し肌寒い日の朝でした。