縄張りへの侵入には敏感です
私と佐助以外の気配があるなんて初めてじゃないだろうか。
重たい足を引きずりながら、いや、正確には「重たい男一人を背負いながら」だ。
ぜえぜえはあはあ言いながら見た目なんか気にしちゃらんないとばかりに足を進める。とは言ってもマンションまではタクシーだからエントラスからエレベーター、そこから自室までの距離なんだけど。
ずっ、ずっ、と引きずる音を聞いているとまるで死体遺棄しに行くような錯覚にとらわれる。身動きひとつしないのでほとんど死体のような物だと言っても差し支えなさそうだが、唯一死体と違うのは呼吸がある事。それも酒気混じりの。
呑気につむがれる呼吸が腹立たしい。
ちきしょうあいつら、私にこんなもん押し付けやがって…!
今日は同僚達と飲み。「日頃の鬱憤を晴らそうぜー」なんて誘い文句を投げかけられたが、私そんなにストレス溜まってないんですけど。
溜まったらその日即座に解消させる。
まあそんな事が可能なのも我が家に可愛いペット君がいるからなんだけど。
だから正直飲みに行くよりもさっさと家に帰りたい。でもそんな事言ってちゃやってけないのが人間関係。
「いいねー」なんてありきたりな返事をしながら渋々家に連絡をした。
『はい、どったの?菜緒ちゃん』
何時間ぶりかの佐助の声に頬が緩んだのも束の間、実はかくかくしかじかで今日は遅くなるねと報告。
『…はーい、了解。気をつけてね』
あー、たぶん困った顏して笑ってるんだろうなー。察しのいい佐助の事だ。きっと私の心中を察して苦笑しているに違いない。
一言二言交わして、ピッと電話を切る。
「………」
毎日顏合わせてるのに後ろ髪引かれまくっている自分に笑ってしまった。
たしなむ程度に飲んで、頃合いを見計らって帰ろうと思ってたら渡されたのがコイツ。
「あ、菜緒もう帰んの?じゃあコイツも一緒に持ってって」
「えっ、やだよ家知らないし」
「んじゃ連れて帰ってよ。あんた一人暮らしでしょ?それにそいつ一旦潰れたら朝まで起きないから大丈夫よ」
いやいや、そういう問題じゃないから。それに一人暮らしじゃないから。
…なんて言えるはずもなく(特に後者)、また潰れたそいつも普段から割りと仲がいい同僚で。
しゃーないか、と小さな仏心を出してしまって、また佐助に電話をかけた。
「…あー、くそ。重い」
しかしその仏心も早速後悔へと変わる。
この私にこんなくそ重い思いさせやがって。いっその事さっぱりと捨てていってやろうか。
…いやいやさすがにそれは…それは駄目よ人として、ね。うん、駄目駄目。
湧いてきてしまった非道な感情を払い落とすようにふるふる頭を振って、やっとついた自宅のドアノブに手をかける。ああ楽園への扉のようだわ輝いて見える!
ガッ・チャ!と些か乱暴にドアを開け放てば、その音を聞き付けて可愛いペット君が走ってやって来た。
「おっかえりー菜緒ちゃ…うわ、出来上がってんねー」
先に連絡しておいたから事情は知っているものの、私と私の抱えているものを見て思わず苦笑する佐助。
やっと辿りついた達成感か、見慣れた笑顔に対する安堵感からか力が抜けて、肩に回していた腕をほどく。支えを失った体はずるりと重力に逆らう事なく玄関に崩れ落ちそうになったが、慌ててそれを佐助が支えた。
「で、この人どうすんの?」
「もう知らない。そこらへんに放っとけばいい」
投げ捨てるように言えばそんな殺生な、と笑って、とりあえず寝室に連れてくねーと軽々と(でもないかもしれないけど、少なくとも私よりは重さを感じてなさそうに)肩を支えて中に入っていく。
別にそのまま佐助に任せてもよかったんだけど、私もぽてぽてと後をついて行った。
普通は客間に通すものなんだろうけど、あいにくそんな部屋などあるはずもない。
着いた寝室の前で佐助は少し考えた後、抱えていたそれをベッドに寝かそうとした。
「ぎゃー!やめてっ!ベッドに他人なんて寝かせたくないっ!」
思わず声を上げて、慌てて一つ余分にあった布団を取り出し、それを乱雑に床へ敷く。呆気に取られている佐助にはい、ここ!と示して未だ呑気に寝くさっている奴をそこへ置いた。赤ら顔で寝息を立てる姿を二人で呆れて見下ろしてから、そっと部屋を後にする。
…はあ。どっと疲れた。
ドアを背にして閉めたところで佐助がぽつりと口を開いた。
「…びっくりした。あんなに嫌がるなんて」
さっきの事かと察して、だって、と続ける。
「嫌じゃん。普段自分が寝てるベッドに他人寝かせるなんて」
別に潔癖ってわけでもないけど、嫌じゃない?なんか気分的に。
「…あーもう考えただけでも落ち着かない!」
やだやだ!と頭振って、反射的に出たさぶいぼを抑えるように腕を抱く。
「菜緒ちゃん、」
「へ?」
いきなり呼ばれた名前に気抜けた声が出てしまった。佐助は何かを言おうと口を開く。なんだろうと首をかしげ続きを待つが佐助は結局何も言わずにそのまま微笑んだ。
「んーん、なんでもない」
「なによ、それ」
へへ、と照れた笑いを浮かべる佐助。なによ、変な子ねえ。
くすくす笑って、リビングに戻ろうとすれば触れ合っていた腕が離れる。
すると佐助がゆるりと後ろから手を繋いできた。応えるように指を絡めれば、そのまま腕を回され包まれるようにして抱きつかれる。
「今日はいつもより長く我慢したから」
時計を見ればいつもの帰宅時間より遅い。
まあ飲んできたしなー、なんて考えながら空返事をすれば佐助は首筋に顔をうめて回した腕の力を強くする。
「いくら賢いペットでも長時間の『待て』は拷問です」
ご主人様、と殊勝な声で言われちゃ元々ペット君に甘い私が勝てるはずもなくて。
「ごめんごめん、ただいま」
額をすり寄せてくる佐助の耳元で囁いて、柔らかな髪に指を通す。さらさら流れる髪からはお風呂上がりのいい香り。
佐助の髪は長めだし柔らかいから香りが付きやすいのよね。
んーいいにおい、なんて思わず目を瞑ってうっとりしていたら、ふと佐助が動きを止め私を見る。それも眉間に皺を盛大に寄せて。
「…なに」
「菜緒ちゃん、くさい」
………そりゃ飲んできたしね、周りにいた同僚も他の客もスパスパ煙草吸ってたしね、酒臭い男一人担いできたしね、わかってるけどね
…なんっか他に言い方はなかったのかなあ!?
こんなんでも女の子。(そういう歳じゃねえだろ、なんて言わないで!自分でもちゃんとわかってる!)
さすがに正面きって「くさい」なんて言われたら結構なダメージだ。
「…お風呂いく」
これ以上いたらもっと言われるかも。それはさすがに勘弁願いたい。私の精神面保護の為にも。
距離をとろうと手をかけてやんわりと腕を外そうとしたら、思いきり強く抱きしめられた。えっ、何々、どういうこと。
「ちょっと。くさいんでしょ?お風呂入るから離してってば」
「うん、確かにくさい」
拗ねた口調で咎めれば、すっぱりと返ってきた返答にまたへこむ。もーなんなのよ、泣くぞこのやろう。
「他の男くさい」
「…はあ?」
「ほ か の お と こ く さ い」
いや、そんなしっかり言い直さなくても分かるけど。でも、なにそれ。
「あの男だ。…むかつく」
ぽそっと言われた言葉に思わずぷっと吹き出せば、むかつくむかつくむかつく!とぎゅうぎゅう抱きしめられる。
いたたたたた、痛いっておばか!ていうか匂いなんてそんな簡単に付くものなの?しかも男かどうかとか分かるもんなの?
ほんとに犬みたい…なんて感心しながら不機嫌な声でうーうー唸る佐助の頭をぽんと叩く。
「だからお風呂入ってくるから、ね」
「…ん」
返事と共に緩んだ腕から抜け出す。振り返った佐助の顏はまるでお気に入りのおもちゃを取られた子ども、と言うかこれってまさか、
(やきもち、ってやつ?)
弾き出した可愛い答えに思いきり顏が緩んでしまった。
やだ!もうやだやだ可愛いこの子ったら!まさか佐助がこんなあからさまに態度に出したりするなんて!
ふふふ、とうすら気持ち悪い笑いを漏らしながら、たしたしたしとオレンジ色の髪を撫でる。
佐助は私の心中を知ってか知らずかまだ膨れっ面だ。ぶーと膨れたぶさいくな頬っぺたすら可愛い。
「匂い落としてくるから、それで大丈夫でしょ?」
「うん…。あと正直言うと俺以外の男が菜緒ちゃんに引っ付くのもむかつくし、まずこの家にいるのもむかつく」
…ああもうこのおばか!
さっちゃん、可愛い!と思わず抱きしめる私を受け止めて、負けじと佐助も腕を強くする。
私達なにしてんだろ。でも可愛いんだから仕方ないでしょ、そうでしょ!?
「うー…早くこれ落としてきて。しっかり落としてね。でも早く上がって」
「わがまま!」
でもそんなお願いに嬉しくなった私はもう終わってる!
縄張り、所有物への執着心を侮らないで下さい。