もし名前を呼ばれても絶対返事をしちゃいけないよ
「『黄昏時の声』って知ってる?」
「たそがれどきのこえ?」
菜緒は繋いでない方の手にある袋を持ち直しながら頷いた。持つ、と差し出した手をやんわりと離されて反対の手で繋がれる。それが少し前のこと。
「そう、黄昏時の声。夕方が過ぎて夜になるまでの少しの時間を黄昏時って言うの」
「じゃあちょうど今が黄昏か?」
菜緒はもう一度頷いて前を見る。夕陽は最後にちらちらと見えるだけでもうほとんど隠れてしまった。橙色から青に、そして黒がついてくる。
「なんか見にくい」
目を細めたり広げたり。どれだけやっても見にくさは変わらず、繋いだ手の温かさを離さないようにぎゅうと力を込めた。
「この見えにくい時によくないものが出るんだって」
「よくないもの?」
訊ねて菜緒を見上げる。だけど菜緒の顔も何だか見にくい。確かめるようにまたぎゅうと手に力を込めたがそれは返ってこなかった。
「呼ぶんだって、名前を」
呼ぶ?名前を?
そうだよ。
ひとつよぶのは父のこえ
ふたつよぶのは母のこえ
みっつよぶのは誰そのこえ
話すように唄う。俺は意味がわからなくて菜緒の名前を呼んだ。菜緒は前を向いたまま。延びた影はだんだんと黒に捕まって薄く、見えなくなっていく。
「一回目に呼ぶ声はお父さん。二回目に呼ぶ声はお母さん」
「三回目の『たそ』は?」
「たそ。得体の知れない者、だよ」
ふぅん。言って、ふと疑問に思う。
「もし返事をしたらどうなる?」
菜緒は歩く速さと同じくらいにゆっくりと口を開いて、ゆっくりと言った。
つれていかれるよ。
どこに、なんて聞かなかった。聞けなかった。冷たい風がひゅうと抜けて髪を撫でる。俺は早く家に帰りたくて急かすように手を引くが菜緒の歩く速さは変わらない。
「菜緒、はやく」
後ろの菜緒を振り返ろうとしたその時。
「景吾」
どきんと心臓が跳ねる。父さんの声だ。
「景ちゃん」
また跳ねる。今度は母さんの声。
いつ?いつ帰ってきたの。
どうして教えてくれなかったの。
仕事で遅くなるって、遠くに行くって、
…こんなに早く帰ってくるはずがない。
帰ってくるのに連絡してくれないはずがない。
…じゃあ、ど う し て ?
どくん・どくん・
心臓が自分のじゃないみたいだ。驚くほどはやい。返事は、してない。しちゃいけない。
こわい。
「景吾くん」
優しい声。ずっと側にいた声が聞こえた。
菜緒の声だ。
ほっとして手を握る。その瞬間、身体が一気に冷たくなった。
冷たい。
これは菜緒の手じゃない。
菜緒の手はこんなのじゃないのを俺が一番知っている。
じゃあ、俺が今繋いでいるのは、だれだ?
「景吾くん」
また聞こえる、菜緒の声で名前を呼ぶ誰かの声。どんどん、どんどん近づいて。
「ぼんの、勝ち」
耳元で聞こえて、するりと頬を一撫でする。驚くほど冷たいそれに背筋がぞうと粟立った。
いつの間にか空っぽになった手のひらはひんやりとした汗をかいている。気配はもうない。
まだどくどく言っている心臓を落ち着かせようと胸の辺りの服でそれを拭った。
「景吾くん!」
後ろで聞こえた声に跳び跳ねたが、大丈夫だと直感する。
「もう!なんで先行っちゃうの!危ないじゃない!」
ごめん、と謝って袋を持ってない方の菜緒の手を繋ぐ。それは温かく、柔らかい。
繋いだ手にぎゅうと力を込めて、俺は歩く速さと同じくらいゆっくりと口を開いて、ゆっくりと言った。
「菜緒、『黄昏時の声』って知ってるか?」
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