気まぐれで、気まま
お腹も膨れ、一息ついたところに、スッと差し出されたコーヒー。
「ボクの好みに合わせちゃったけど」
「ありがとうございます。すみません、何から甘えてしまって…」
「いえいえ」
受け取ったコーヒーの香りを楽しんで、ゆっくりとひとくちいただく。
ミルクの入ったほんのり甘いコーヒーは、すでに緩んでいたであろう緊張感を完全に取り払ってしまった。
ヒソカさん好みの味って言ってたけど、これぐらいが私も好みだ。コーヒーの味加減は人それぞれで難しいよなあ、と思っていただけにこの一致は嬉しい。
感想を伝えるべく、ぱっと顔を上げると、何故かニマニマとした笑みを浮かべた彼とばっちり目が合った。密かに肩を揺らしたのは秘密だ。
「美味しい?」
「はい、とっても。すごく好きな甘さです」
「そ、ならよかった。ボクも得るモノが多くて嬉しいよ」
「はあ…」
得るものなんてあったかなあ、と疑問が頭をよぎるが、ヒソカさんの笑顔になんだか圧倒されて、その疑問を口にすることはなかった。
ほこほこと昇る湯気が顔に当たって心地いい。それでも考えなくてはならない事が山ほどある。これ以上この方にご迷惑を掛けるわけにはいかないのだから。
ふう、と溜まった息を小さく出し、視線を下げた先に一枚の紙が目に入った。
「これ、不思議な模様ですね。所々で見ますけど有名な模様だったりするんですか?」
「…文字だけど?」
「えっ」
「えっ」
「モジって名前の模様…?」
「文字は文字だよ。言語。ちなみにそれはメニュー表」
「これ…メニュー表…?」
そう言えばさっきヒソカさんが見てたな…。
マルやら棒やら曲線やらを多用したそれら。記号のようにも見えるが、日常的に目にするような「何かを示す意味を持った」記号ではない。それらがつらつらと並んでいたら模様にも見える。と、いうか模様にしか見えないのだ。それを文字だと認識出来ないのだから…!
「ナオ。キミは一体何処からやってきたのかな」
メニュー表だと言われる紙を持つ手が、カタカタと震える。
ようやっと気付いた。ただでさえ不可思議な状況にいる自分は、本当に「現実」にいるのだろうか、と。
優しげに、楽しげに、投げ掛けられたセリフが、不安という谷底へ向かって私の背中を躊躇なく押した。
*****
ヒソカさんの自己紹介や質問を聞いている時から、疑問に思う部分は多々あった。
ここは「てんくうとうぎじょう」だとか、「はんたーらいせんす」とやらの有無を聞かれたりだとか。
「なんでその時に疑問を口にしなかったんだい」
コラ、と軽く怒られてしまった。
言い訳になってしまうが、なぜ一般女子に益荒男が有するような猟師資格を訊ねるのだろうかと悩んだものの、正式名称が英語で長ったらしいので頭文字を取ってハンターと呼ぶような資格があるのかもしれないと思考を切り替えました、と理由を話せば、あからさまに溜め息をつかれた。つらい。
「ちなみにこれは何ていう文字ですか?」
「ハンター文字」
「ハン…?」
聞いたことないですよそんな文字、と笑い飛ばせたらどんなに良かっただろう。
だけどそんな事など出来るはずもない。「今」この周りにある言語が見覚えすらないのだから。
所々で上滑りする私達のやり取り。
先ほど頭を掠めた「疑惑」に拍車がかかる。
「すごく壮大な夢を見ている…?」
「そういう結果にしたい気持ちは分かるけど、それじゃあボクが夢の中の人間になるから却下」
「却下かあ…」
真顔ですっぱり却下されてしまった。
確かにヒソカさんからすれば、いきなり存在を否定するような事は言われたくないだろう。それに自分だって夢などと言いながら「そんなはずはない」と、どこかで思っているのだ。
どんなに頭をひねって、こねくり返しても答えの出ない問題。うんうん唸っていると、テーブルに頬杖をついて私の様子を見ていた?ヒソカさんが急に席を立った。
「どれだけ百面相を眺めていても答えは出ないようだね。ボクにも分からないし」
「すみません…」
「いいさ。面白い事や非日常は嫌いじゃない。今、『ボクの答え』は出たからシャワー浴びてくるね」
「えっ!?えっ、ヒソカさんの答え、ですか?」
「そ、ボクの答え。キミはどうする?ナオ」
「ど、どうしましょう」
「ボクは事前に選択肢はひとつ与えていたつもりだけど」
「選択肢…?」
「シャワーから出たらキミの答えを聞かせておくれ。じゃあね」
やはりどこまでも優雅に、ひらひらと手を振る後姿を呆然と見つめる。
…この光景、今日も見たなあ。
『好きにしたらいい』
ふわりと浮かんだ記憶と言葉。そう、確かに彼はそう言った。
「…これが、選択肢…?」
原因も分からず「来て」しまった私。元の世界とは似て異なる世界。知り合いもいない、文字も読めなければ、行く当てもない。
「…しばらくお世話になろう」
私の『答え』を、ヒソカさんが受け入れてくださるように祈るしかない。