あきちゃんの白い背中から、何かがふたつ、突き出ていた。
お風呂上がりのあきちゃんがソファに座って濡れた髪をタオルで乾かしている。台所へ行って冷たいお茶を飲んでいたおれさまはじっとその後ろ姿を見ていた。濡れた髪をタオルでまとめ上げるたび背中のそれも一緒に動く。薄く突き出たそれが背中の表面を滑る様はとても不思議な事に思えた。
「あきちゃん、これなあに」
「ん?」
我慢出来なくなって背中に手を添え、問うてみた。振り向いたあきちゃんにつられて不思議なこぶも動く。しばらく背中に向けられたままの視線に小首を傾げていたが、添えられた手の行方に気付いて「ああ」と頷いた。
「肩胛骨だよ」
「けんこう、こつ?なんでこんなのあるの?」
「む、なんでだろ…」
腕がよく回るように?稼動部分の接続的な役目?ただの形?あきちゃんは顎に指をかけてうんうん唸る。その間おれさまはぷっくり膨れた「けんこうこつ」をずっと撫でていた。
人間には毛皮がないから骨の形や動きがよく分かる。薄い皮膚のすぐ下にある「けんこうこつ」は柔らかいけど硬くて、やっぱり不思議な感じがした。
自分にもあるのだろうか。手を背中に回すが腕が短くて届かない。指先がちょっと掠っただけで終わってしまった。
「そう言えば肩胛骨は翼の名残だって聞いた事があるよ」
「つばさ?もとなりみたいな?」
返事の代わりにあきちゃんはにっこり笑う。
生き物は長い長い、気が遠くなるほど長い時間をかけて進化してきた。進化の過程でそれぞれが適した形に変化し、今の形になったんだとあきちゃんは説明してくれた。
「でもまだまだ生き物は進化していくんだって。これも名残じゃなくて翼が生える前触れなのかもしれないね」
そう言ってあきちゃんは肩胛骨を動かしてみせる。きれいに動くそれは今にも真っ白な翼が飛び出してきそうだと思った。もう一度自分の背中を触ってみる。指先を掠めた小さな翼の名残では上手く羽ばたけそうにない。
「自由に飛べるようになるのかあ」
うっとりと想いを馳せるあきちゃん。天井すらも見透かして果てしない空を瞳に映す横顔が妙に心をざわつかせる。
あきちゃんの無防備な背中に触れる。そっと顔を近付けて、小さく小さく歯を立てた。赤くなった翼の名残。白い背中に浮かぶ赤はまるで羽ばたく日を楽しみにしていた翼をもいでしまった痕のように見えた。
「佐助?」
「…ごめんなさい」
でもこうしなきゃあなたはきれいな翼で飛んでいってしまう。小さくて出来損ないの翼では追いつけないくらい遠くに。
自分はとても残酷な事をしたんだと心が潰れそうになった。だけど同時に酷く安堵した。
これで独りになる事はないなんて。
これであきちゃんを地上に縛り付けておける、なんて。
おれの気持ちを知ってか知らずか、あきちゃんは困ったように目を細める。その笑顔に心臓がきゅうと音を立てた。
「なんて顔してるの」
頬をくすぐるあきちゃんの指。いつもなら嬉しいはずの指も笑顔も今は少し切ない。
「佐助が何を不安がってるのか分かんないけど」
あきちゃんの指が頭の形を確かめるように髪を梳く。くう、とひとりでに喉が鳴った。
「気になるなら佐助の好きなようにしたらいいよ」
そう言ってあきちゃんは背中を向け、髪を引いて下を向いた。露わになった肩胛骨。さっき付けた赤いしるしはすでに消えている。
「…ごめんなさい」
口の中で小さく呟いて、今度はもう少しだけ強く歯を立てた。
「…いたい?」
「ううん。どっちかと言うとくすぐったい」
赤くなったそこを撫でながら聞いてみる。あきちゃんはやっぱり笑っていて、だけど困っているようにも見えた。こんな顔をさせたのはまぎれもない自分。
そう思ったら全てが悲しくなった。あきちゃんにぎゅってしたくなった。いっぱい背伸びをして腕を伸ばしてぎゅっとした。
「あきちゃん…あきちゃん…あきちゃん…」
何度も名前を呼んで、ぎゅっとして耳の後ろに鼻先をこすりつける。いつも嗅いでるあきちゃんのにおいがした。
「佐助、こっちおいで」
声に従ってソファの前へ回る。おれさまが膝に乗るよりも早くあきちゃんが抱き上げてくれた。膝の上、目の前にはあきちゃん。
「翼の話で何か悲しくなっちゃった?」
「…んん」
「佐助にもあるね」
あきちゃんの指が背中にある骨をこりこりと触る。くすぐったくて軽く身を捩ったら手はすぐ離れていった。
「…でもちいさいもん。おれさまこんなのやだもん。あきちゃんといっしょがいいもん」
「一緒だよ?」
「…ちがうもん」
ふくれっ面で答えたらあきちゃんはちょっとびっくりしたみたいだった。だって、こんなのじゃやなんだもん。
「…じゃー私もいいや」
「…え?」
「佐助がいらないんなら私もいらなーい」
私も佐助と一緒がいいもん。にっこり笑って、ほっぺたをきゅっとつままれた。
ちょっとだけ痛かったけど、楽しそうに笑うあきちゃんの笑顔はお日さまみたいだなあと思った。
イカロスの翼は太陽の熱で溶けてしまった