浮上し始めた意識につられてゆるゆると瞼を上げる。ぱりりとくっ付いた瞼を剥がす為にこすると手の甲がしっとりと濡れた。
睫毛に残るそれは言わずもがな涙で結局あのまま泣き疲れて眠ってしまったのかと羞恥で頬に熱が籠もる。
辺りはまだ暗闇が我が物顔で鎮座していて、少し肌寒いくらいの気温が有り難かった。
上掛けから少し顔を出して火照りを治めようとしたがなかなか治まらず、短く丸みを帯びた五本の指で誤魔化すためにぺちぺちと叩く。
他の人間と比べれば随分小さいが紛れもない人の手。
未だ見慣れないのはあまりこの姿にならない為。過去を呼び覚まさないようにする為。
指先に残る薄桃色の細かな傷を視界の端で捉えてしまい胸がつくんと音を立てた。
隣にある気配と小さな寝息を思い出す。そこにはあどけない顔で寝息を立てるこの部屋の主がいた。
する、する、と衣擦れの音が聞こえる。
なんだと音のする方を見やれば、何かを探すようにして主の手が動いていた。
この手は無意識に何を探しているんだろうか。
(おれだったら、いいなあ)
そんな願望がひょいと首をもたげ、そして急速に萎む。
この人は小汚いおれを拾い、気味の悪い姿を見せても怖がらず、さらにはそばにおいてくれると言った。
それだけで充分過ぎるというのにこれ以上何を望むのか。
(ぜいたく、すぎるほどだっていうのに)
揺らさないように上掛けから上半身を起こし、主の求めているものを探して渡してあげようと辺りを見渡す。
(ティッシュかな。テレビのリモコンは…ちがうよね)
きょろきょろと視線を巡らせるが如何せんよく見えない。もしかしたら少し離れた所にあるのかも。
そう思い寝床から這い出そうとしたら、がしりと尻尾を鷲掴みにされた。
「ぴ、ゃ」
思いがけない出来事に次いで出そうになった言葉をかみ殺す。口に両手をあてて必死に抑えるが殺しきれない声がふぐふぐと不恰好な音になって漏れてしまう。
びりびりと微かな電流が背筋に流れる感触を感じながら薄く涙の滲む双眸でそろりそろりと振り返った。
やはり掴んでいるのは主で、寝ぼけているせいか力加減というものは全くない。
確かめるように緩んでは締まる手に「あぅ、あ、ぅ」と情けない声がひとりでに出ていく。やわやわと力を緩められればどこかもどかしくて、くぅん、と鼻に掛かった声が漏れてしまった。
感じたことのない奇妙な感覚から逃げ出したいような、捕らわれていたいような感情が入り混じってよく分からない。
しばらく葛藤していたが、ついに前者に比重が傾き、手を離してもらおうと乱れた呼気を整える。酷く緩慢な動きになる体を叱咤して体勢を後ろにやると、尻尾を掴んでいた手が腹に周りそのまま引っ張り込まれてしまった。
すっぽり収まった主の腕の中で飲み込めない状況におろおろしていると、ゆるり、ゆるりと背を撫でる手に気付く。
殆ど条件反射のようなもので、ほうと息を零し肩の力が抜けると主のもう片方の手がゆるゆると頭を撫で始めた。
主の暖かく、柔い感触が触れ合った箇所から伝わって、くぅんと喉から甘えた声が漏れる。
再び落ちてきた瞼をなんとか耐えて、顔を上げて主に視線を向けた。
規則正しい寝息を立てる姿は変わっていないが、どこかその表情は先ほどよりも穏やかになっているような気がする。
カーテンの隙間から差し込む月の光に淡く照らされた頬へ手を伸ばす。青白く浮かび上がる頬は儚げで、触れる事すら憚られ触れるか触れないかという所で手を止めた。
(…きれいだなあ)
素直にそう思った。月夜に浮かび上がる主のなんと美しいことか。
(このひとがおれさまのあるじ…)
未だに現実味を帯びないのはきっとこの姿を見せたせい。
この姿を見せずに獣のままでいたらこうは思わなかったのだろう。獣のままでも全く支障はないのだから。
浮かんでは消える彼女に拾われてからの日々。たまに怒られたりもするけれど、少ししたら苦い顔をして名前を呼んでくれる。その後に向けられる笑顔が何よりも好きだ。
(このひとのえがお、ずっとみてたいなあ)
(ずっと、なまえよんでてほしいなあ)
(ずっと、ずっとそばにいたいなあ)
撫でて、ぎゅうとして、名前をよんでくれたらしあわせだなあと想像して、くふふと漏れた声を両手で抑える。
…ああ、でもやはり想像するだけでは物足りない。どれだけ言い聞かせても自分はもうこの人の温かさを知ってしまっているのだ。
(あした、あしたになったら)
起きて、少しだけわがままになろう。ぎゅうとして下さいと頼もう。もう少しわがままになって耳もなでて下さいと頼もう。
その時名前をよんでくれたら、くすぐったくて笑ってしまうかもしれない。
断られるという不安はもちろんあるけれど、でも回された手が不安を無くしてくれているような気がするから。
早くお日さまが出ないかな。そう考えながら瞼をゆっくりと落とした。
拝啓、ご主人さま。