ここから見る世界はとても広くて美しくて
ある日小さなお姫様がやってきた。彼女は青い淵の小さな金魚鉢の中で優雅に淡い薄桃色の背びれを揺らして俺の目の前にやってきた。
コポコポと彼女から空気の泡がもれては消える。
「はじめまして、わたしは菜緒」
「はじめまして、菜緒。とってもきれいな尾びれだね」
そして、きみはとても美味しそうだ。
それは最高の褒め言葉にして本能からの台詞。優しく揺れる背びれも、長くふんわりとした尾びれもどんなに美しくたってそれは欲を掻き立てるものでしかない。
そう、だって君は金魚で俺様は猫。
誰もおかしいだなんて思いやしない。もし思うとするならば俺の前に彼女を連れてきた飼い主だろう。
どんなに俺様が利口な猫でも本能には従順だ。いや、利口だからこそ従うのに。
それは当然の行動。浮かび上がるこの感情は獲物を前にした捕食者としての昂り。
揺れる薄桃色に瞳を奪われながら手を伸ばすと、咎めるように水がぴちゃんと跳ねた。
「…なに?」
見つめる彼女に問う。問うたとしても答えさせるかどうか分からない。その前に君は胃袋に収まっているかもしれない。
「あなたのお名前は?」
小さな彼女は小さな気泡をコポコポと出して俺様にそう問うた。刹那、気泡がまたひとつ、消える。
「佐助。猫の佐助だよ金魚姫」
「ねこ?佐助は猫なの?わたし初めて見たわ」
ふふっと笑うと水が揺れて、薄桃色が広がる。同時にはじけた気泡と一緒に心の奥で何かが浮かび、はじけたような気がしたのはきっと気のせいだ。
「ねえ佐助、あれはなに?」
「あれは空だよ金魚姫」
「そら?だってさっきまで青かったのに今と全然ちがうわ」
「菜緒が見つめるから赤くなっちゃったんだよ」
「空は照れ屋なのね」
菜緒は笑って尾を揺らす。菜緒が笑い、生まれる気泡と一緒に浮かんでは消える胸のこれはなんだろう。
とてももどかしくて、くすぐったくて、でもどこか甘くて、胸が締め付けられる。
俺の心にはいつから金魚がいたんだろう。
菜緒がゆらりと揺れて薄桃色に視界が覆われるたびにそれはぱちんぱちんとはじけるんだ。
何も知らない金魚姫に色々教える俺はたくさんの事を知っている。それは間違いない。
けれど唯一分からないこれは何も知らない金魚姫からもたらされている事にも賢い俺は気付いていた。
心の側面を撫でる背びれが愛おしくも憎らしいと思った。
空がまた深く、朱色に染まる。
「佐助」
「なぁに」
「佐助の色」
「なにがさ」
「あの空は佐助の色ね。とても優しい色をしているわ」
だからあの空が好きよ。とてもとても優しいもの。
そう言った金魚姫の瞳は空に向けられて、淡い桃色が少しだけ朱くなる。
なんだか切なくなって、なんだか…
「ねえ菜緒、こっち向いて」
「なぁに」
ぱちん・とまたはじけた。
「菜緒が、欲しいな」
欲しい。欲しい。菜緒が欲しい。
優しく揺れる背びれも、長くふんわりとした尾びれも、浮かぶ泡も、はじける泡沫も。全部、全部、菜緒の全てが欲しい。
小さな姫は驚いた顔を見せて、そしてにっこりと微笑んだ。
「わたしもそう思ってたとこ」
二人して同時にそう思うなんて何だか素敵じゃない?尾びれをくゆらせて言う。また一つ、はじけたそれはとても熱かった。
どちらともなく顔を近付けて口を合わせる。彼女のそれはひんやりとしていた。
ゆっくりと抱き上げ、彼女をペロリと舐める。
「菜緒」
「佐助」
わたし、いまとてもしあわせよ。
「菜緒」
菜緒。菜緒。菜緒。
鋭利な白が彼女の淡い桃色を穿つ。
「…菜緒」
広がった紅は彼女にとても映えていた。
満たされたのは食欲と情欲。そしてそれを簡単に覆い尽くしてしまうほどの虚無感。
小さな彼は知らなかった。小さく狭い世界で生きてきた彼はこの感情の原因や名前すら知らなかった。どう満たすのかも知らなかった。
あかい実ひとつ、はじけて、消えた。
泡沫の向こうに魅る世界あなたは きみは わたしの全てでした。
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