11時50分。今年も残すところあと僅か。

なんとなしに点けていたテレビの中の人達の慌ただしさとは反対に私達はとても穏やかに今年の終わりを待っていた。


「ぜったいおこしてね!」と散々騒いでいた愛狐は私に持たれ掛かって既に船を漕いでいる。

普段ならとっくに寝ている時間だからしょうがない。それでもまだ撃沈していないだけ頑張っている方だ。

起こすのはどうも忍びないが、起こさなければ明日はずっと機嫌が悪くなってしまうだろう。

ぷりぷり怒る佐助も可愛いのだけれど、やはり一年の始めは二人仲良く過ごしたい。


「ほら佐助、もうすぐ今年が終わるよ。カウントダウンするんでしょ」

「ん、ぅ〜…ぅぅ」


私の右腕に持たれていた佐助を抱き上げて膝の上に抱え直す。体温を失った右腕はひやりとするが、代わりに胸から腹にかけて温かくなった。

向かい合う形で全身を預けている佐助は、呼び掛けにイヤイヤと頭を振って私の胸に顔をこすりつける。

つん、と旋毛をつついたら胸辺りに添えられた小さな手がきゅうと拳に姿を変えた。そんな仕草までいちいち可愛くて無理に起こすのはやはり止めようかとも思ったが、明日の事を考えて続行する事に。


「さっちゃん、あと5分きったよ」

「おえさま、ねむい、よ…」


俯いた頭に沿うようにふわふわの耳も下がってしまっている。時折ひくりと反応して唇を掠めるそれ。

下唇をゆるりゆるりと撫でる耳にまるで前戯のようだなとぼんやり思いながら、タイミングを見計らってぱくりと噛み付いてやった。とは言っても唇で挟んだだけで力を込めたりはしない。

「ひゃあ!」と声を上げた佐助を気にせずに、もむもむと唇で柔く食みながら膨らんだ尻尾を撫でる。

「あう、あ、う」とようやっと佐助は顔を上げた。


「ひゃ、ひゃめ、菜緒ちゃ…ん」

「起きたぁ?」

「おき、た、…おきたからぁ」

「よし」


ぱ、と離してやると耳を確認しながら「たべられるかとおもった」と呟く。さすがに私もそこまではしない。



こたつに乗せられた色違いのキツネのマグカップ。コーヒー牛乳の入ったオレンジ色の方を手渡せば両手で受け取りちびちびと口を付ける。

ピンクの方には少し冷めたコーヒーが入っていて、私もそれを傾けた。


「まだ眠そうだね」

「んー…でもかうんとだうんするから…がんばる」


うん、と自分自身へ気合いを入れるように頷く様子は健気だが、やはり睡魔の存在は強大なようで今にも意識を持っていかれそう。

佐助くーんと呼びながら尻尾をふりふりと揺らせば緩やかに手から逃げた。

あ、ちょっと菜緒ちゃん傷付いちゃったな。

こっくりこっくりと船を漕ぐ佐助の持っていたマグをテーブルに置けば、そのまま再び私の胸になだれ込んだ。

ふかりとしたそこに何度か顔をこすりつけて丁度いい場所を探しているらしい。
ぴくぴくと忙しなく動いていた形のいい耳が急にへたれ込んだ。

…どうやら上手く見つかったようだ。


やれやれ、溜め息を零しながらもオレンジ色の髪を撫でる手は止めない。何だかんだで私も大概この子に弱いんだから。


「さすけ、寝るならお布団いこ。ね」

「…や、おえさま、ここ、がいい…やわわかいもん…」


やわわかい…。言い間違えてるぞーと心の中で突っ込みながらも、ぽやぽやした舌っ足らずな言い方にめろっとするのも仕様がないと思う。

あったかいもん…と擦り寄ってくるこの可愛らしい生き物に母性本能という本能をくすぐられてたまらないのも私にはどう足掻く事も出来ない。

愛しくて仕方のない愛孤をぎゅうと抱きしめて柔らかい髪に鼻を埋める。ふわりと鼻腔をくすぐる幼子特有の甘い香りに胸がきゅんと暖かくなった。


独り騒がしいテレビがカウントダウンの準備を始める。


「佐助はほんと可愛いなあ…。ちゅーしちゃうぞ」


冗談半分、本気半分で見るからに柔らかそうな丸いほっぺたに唇を落とそうとしたら、勢いよく体を起こした佐助が思い切り私と距離を取った。

突然の事に呆然としている私の目の前で佐助は自分の両頬を押さえる。


「だ、だめ!」


必死に頬を隠す佐助に後頭部を鈍器で殴られたような衝撃。まさか佐助が私を拒否する言葉を発するなんて思いもしなかった。

しかし動揺している様をおくびにも出さず軽い口調で返す。


「なによー。いいじゃないちょっとくらい。いつも怒らないのにー」

「いつもやってるからだめっ!」


…ん?あれ?なにそれ。いつもやってるからだめ?あれ、それって「いつも我慢してた」ってこと?

鉛を含んだみたいにずんと一気に重量を増す頭と心。前触れもなく増した重さに耐えられなくて今にもどこかのヒューズが焼き切れそうだ。



まるで他人事と言わんばかりに盛り上がるテレビの住人達の声は遠い国の聞いた事のない言葉みたいに聞こえる。

目の前で頬を押さえるのを止めた佐助がオロオロと何かを言っているみたいだが何故か上手く聞き取れない。


ああ、視界までぼんやりしてきた。鮮やかなオレンジ色が滲んでいく。



上手くまとまらない頭で見ていると、テレビと私を何度も見比べていた小さな頭が止まり、くりりとした双眸が私を捕らえた。

意を決したと言わんばかりのその表情の意味する事が分からなくて、気怠げに小首を傾げる。


ようやっと異国語から脱したテレビの中から聞こえていた甲高い声が、待ってましたとばかりに新年を告げて私の耳を貫いた。



ちゅる



耳元で聞こえた水気を含んだ可愛らしい音と同時に頬から伝わる柔らかい感触。


「…ていうか、ちゅーじゃなくて舐めたよねこれ」

「あ、あれ!?ちがう!?」


あれ!?あれ!?とさっき以上に慌てる佐助にとうとう吹き出してしまった。


「…なんでわらうのぉ」

「だ、だってさ、私にはちゅーしちゃ駄目とか言うし、でもなんか佐助がちゅーするし、しかも微妙にちゅーじゃないし」

安堵とか嬉しさとかが押し寄せてきて一気に笑いの波を引っ張ってくる。込み上げるそれは先程の沈んだ気持ちを払拭して、目尻に浮かんだ涙がぼろりと一筋頬に流れた。

私的にはすでにその涙は悲しみを帯びたそれではなかったのだが、どうやら愛狐はそう思わなかったらしい。

幼い舌がぺろりと頬を這う。その感触に驚いてすぐ横にあった顔を見れば、大きな瞳には薄い膜が張ってあった。


「まちがったから菜緒ちゃんかなしいの?おれさま菜緒ちゃんにちゅーされると、いつもふわふわしたきもちになるから、おれさまも菜緒ちゃんにしたかったんだけど…」


しょぼんと大きな耳を垂れさせてぽしょりぽしょりと呟く。小さな指同士を絡ませて心の内を告げる佐助に愛おしさが胸に溢れだす。
「佐助」


柔らかい前髪を後ろへ流して露わになった白い額へ唇を。つるりとしたそこから小気味良いリップ音。


「菜緒ちゃ、」


ちゅ、ちゅ、ちゅ、と何度も何度も唇を落とせば戸惑っていた佐助もだんだん大人しくなって、今ではとろりとした表情で受け止めている。

少し体温の上がった丸いほっぺを両手で包んで最後にもう一度キスを落とした。

向けられたとろみがかった瞳を覗き込んで小首を傾げて伺えば、はふ、とひとつ息を零して口を開く。


「ひもち、いい…」

「よかった。私も同じ気持ち」


両想いだね、と瞼にそれぞれちゅっと音を立ててもう一度キスすれば、ふるふる震えていた佐助の手が私の首に巻き付いた。

力加減が分からないのか締まった首が少し苦しい。


「菜緒ちゃ、すき、だいすき」


答えるように幼い背を撫でる。回った腕の力が少し緩まった。…と同時に肩に程よい重量感。

こてんと寄せられた頭から、すうすうと規則正しい寝息と一緒に譫言のような「すき」が何度も聞こえてきた。


「…本当、可愛いったら」


テレビは相も変わらず騒がしくて、切り離された世界の出来事を映している。
それはとても華やかで、きっと誰もが羨む世界なんだろう。

それでも、どちらかひとつを選べと問われたら私はふたつ返事で今を選ぶよ。





だって今、私は幸せに包まれている。

あなたに出会えた一年と、あなたと共に歩める一年に感謝して。



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