照り付ける陽射しから逃げるように街路樹が生み出す日陰に避難した。僅かではあるが風が吹き抜け、滲んだ汗がひやりとして気持ちがいい。それでも陽射しと陽射しで熱されたアスファルトの猛攻に熔けてしまうのではないかと思わせる程に暑いのだが。


(俺の才能もこのまま熔けてしまうのではなかろうか)


馬鹿馬鹿しいと笑いながらも、拭いきれない不安に背筋が寒くなった。

描けなくなってから何日経っただろう。幾度筆を取り、何度色を重ね、どれほどのカンバスを葬ったか。描きたいのに描けない。自分の中で生まれる物を形に出来ない。筆を取り、「創る」事しか出来ないのにそれを昇華することすら出来ない。


(…結構、辛いものだな)


溢れるそれは行き場を失い、ひたすら俺の中に溜まり続ける。渦巻くそれは一体何色をしているのだろうか。よほど澱んだ色をしているのだろうなと思い、こんな時までそんな喩えしか出来ない自分に自嘲した。


その時の俺を澱んだ黒だとしたら彼女は全てを無に帰す白だろう。


「真田…幸村、先生ですか?」

「…え」


濃紺のタイトなスーツに漆黒の細く長い髪。高すぎない穏やかな声は確かに俺の名を呼んだ。


「ええ、俺が真田幸村ですが」


誰だろうかと思いながらも返事をすれば、不安げな表情が微笑みに変わった。


「私、佐助さんの紹介で今日から臨時アシスタントを勤めさせて頂きます、」

「あ、『菜緒』、殿か?」

「はい。でもどうして名前を…」

「佐助から貴女の話をよく聞いておりましたので」


そうなんですか、と少し安堵してみせた彼女は「そういう事ですのでどうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。ぺこりと下げた途端、耳にかけていた髪が落ち、彼女の細い指がそれを再び元あった所へかける。

佐助の話から聞いていた通りの人だ。いや正確には佐助の話を聞き、想像していた通りの人だと纏まらない頭でぼんやり思う。

濃紺のスーツ、漆黒の髪、さらには照り付ける陽射しが生み出す影も、それら全てが彼女の白磁のような肌を際立たせ、思考を奪ってしまう程に美しかった。





マンションの一室、自宅兼アトリエに菜緒を通す。


「散らかり放題で申し訳ないのだが…」


絵具や筆、真新しいカンバスや生まれそこなった作品達が散乱する部屋。スリッパを出しながら謝罪すると彼女は至極楽しそうに笑った。


「大丈夫です。その為に私が来たんですから」


掃除のしがいがありますね。そう言って笑う彼女は早速仕事を開始した。

せかせかと部屋を片していく彼女とは反対に俺の筆は一向に動こうとしなかった。菜緒のように迷わず手を動かせたらどんなに気持ち良いだろう。

ふと思う。何故描けないのか。そこに明確な目的がないからだ。描きたい、しかし何を描きたいのかがわからない。いつもは己の感情のままに筆を動かしてきた。では今、己の中を占めているものは何だろう。

判明した原因に頷いて視界の端々に映る菜緒を見た。


「あっ」


彼女が手にしたパレット、あれはまだ絵具が乾いていない。思わず上げた声に肩を跳ねさせた菜緒の手からパレットが落ちた。衝撃で中の絵具が跳ね、菜緒の頬を汚す。


「もっ、申し訳ない!それは絵具が乾いておらぬ故、気をつけてくれと言おうとしたのだ」


大いに狼狽しながら菜緒の頬を両手で包み、右手の親指で擦る。しかしまだ水分を含んだ絵具は俺の指でしっかり伸びてしまった。


「……!」


なんと由々しき事態。女性の肌を更に汚してしまうとは。普段の自分ならば慌てて謝罪していただろう。肌を汚してしまった事。思わず触れてしまった事。しかし、この瞬間口をついて出たのは自分でも思いもしない言葉だった。


「…美しい」


白磁の肌に伸びた銅色。まるで酸化した血糊のような色。もしそれが本物ならば既に彼女は生き絶えているであろうが、べとりと絵具が付いた肌は瑞々しい生命力で溢れている。対照的な二つに身体の中心が熱を持ち始めたのを感じた。久々に味わう感覚。ああ、やっと見つけた。


「描かかせてくれ」

「…え、」

「菜緒を描かせてくれ」


包んだ頬、再び親指で拭えば乾き始めていた絵具がパリパリと引きつる。菜緒は少し目を細めてから視線をさ迷わせ、そして真っ直ぐ自分に注がれる視線を受け止めた。


「…はい。先生のお役に立てるのでしたら、喜んで」


白い肌を染めてはにかんだ顔を見せる菜緒。込み上げてくる感情のままに抱き締める。「く、苦しいです先生」と菜緒が呻くまで彼女のしなやかな体に回した腕を緩める事はなかった。





「そこに座って視線をこちらに流してもらえるか」

「は、はい」


たどたどしくも指示通り従う彼女。何度か筆を走らせた後、視線を向ければカンバス越しの菜緒と目が合った。彼女は慌てて何かを探すように視線をさまよわせ、繕うように口を開いた。


「あ、の…スーツのままですけど、いいんですか?」


右腕を竦ませ、そのまま指先で袖を摘む。その質問に「ああ」と手を止める事なく答えた。


「スーツの色が肌の白さを引き立てているからな。でも脱ぎたかったら別に裸になってくれても俺は構わんが」

「先生っ…」


真っ赤になって俯く菜緒に口元だけで笑い、直ぐに表情を引き締めて名を呼ぶ。


「菜緒」


咎めるような声色を出せば菜緒は小さく肩を震わせ、様子を窺うように視線を上げた。


「俯いては描けぬ」


抑揚のない物言いに怒らせたと思ったらしい菜緒は眉を下げ「…すみません」と呟いて再び同じ姿勢を取る。しかし向けられた双眸は羞恥に潤み、頬を朱に染め、微かに唇を戦慄かせている。


「……」


その朱も確かにいい。しかし俺が求めているのはより鮮烈な紅なのだ。


「…そなたの」

「え、」

「そなたの肌を鮮血で染め上げる事が出来たのなら、これ以上美しいものはないのであろうな」


微笑みの上に連ねた狂気。無意識である程恐ろしいこの感情に目の前の女は白磁のような肌をただただ赤く染め上げるのだった。



狂喜の赤に染め上がる




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