陽も暮れ街灯が映し出す己の影を追うようにして帰路を急いでいた。点々と灯る裸電球に夜虫が微かな羽音をたてて群がっている。
少し湿り気を帯びた空気がじっとり肌にまとわりつき、首筋に貼り付く髪を払うようにして首を振り、更に足を速めた。

両腕いっぱいの買い物袋。慌ただしい音を立て、我先に飛び出していきそうな食材たちは数日せずと消えてしまうのだろう。やはりもう少し買っておくべきだったか。紙袋から覗く大量の食材に視線をやって考える。今戻ればまだ店も開いている。少々面倒ではあるが後日また出向くよりはましだと踵を返そうと振り向いた。



その時微かな悲鳴が耳をかすった。

今まで己が向かっていた先だ。近い。そう判断し、足に力を込める。幾つか溢れていった食材には目もくれなかった。







荒い息を少しでも静めようと着物の合わせをぐっと抑える。しかしそれは大した気休めにもならず、不格好に着物が乱れただけだった。すでに裾は乱れきり、足など殆ど露出していた。

はしたない。普段ならばそう咎められ、自分だってここまで放っておかない。だがそんな事を気にしている暇はなかった。ひたすら駆ける。一刻も早く逃げなければ。


一定だった地を蹴る草履の音が少しずつ不規則になり、間隔が延び始める。先程までたくさんあった街灯は今やまばらで点々としか先を照らしてはいない。

よし、あそこまで行ったら一度休もう。

酸欠で霞み掛かり始めた視界の先にある光を求める。橙のそれは切れかかっているのか消えたりついたりを繰り返すが酷く温かそうで、壁に手を付き歩を進める自分はまるで街灯に寄っていく虫のようだと思った。


瞬間、全てが闇に覆われた。


ぎりりと着物の合わせと共に喉を締め上げられ、耐えられずに空気の塊を吐き出す。縮こまった肺が次の酸素を求めたが、微かにしか送り込まれてこない。自分の首に伸びている男の太い腕を叩く。思い切り力を込めた筈なのにぺちりと情けない音しかしなかった。


男は顔半分を覆う程長い前髪を持っていたがそれは片側だけで、反対側は短く刈込まれている。奇抜な髪型の男の瞳は静かな狂気を孕んでいるのが見て取れた。


嫌悪と恐怖、ままならない呼吸に眉を顰めれば、楽しくて仕方ないといった様子で男の口端が吊り上がる。

ぎり、更に腕に力が込められいよいよ意識を手放しかけた。濁った世界は目前まで迫っていた。


大きく鈍い音がして意識を手放すよりも先に男の腕が離れていった。膝が折れ、地面にどすりと座り込む。打ち付けた尻が痛んだが、構わんとばかりに空気を取り込んだ。締め付けられていた気道が一気に拡がり、痛み咳き込んだが、必死で求めるまま呼吸を繰り返す。

まだ呼気は荒く喉は痛んだが、何故突然あの男は腕を放したのだろうか。それが気になり視線を上げる。ぜひぜひと不格好な呼吸をしつつ朦朧と視線を這わせる。

そこには先程の男の姿は無く、代わりに別の人影があった。


「か弱きおなごを手に掛けるなど男の風上にも置けぬ」


陽は完全に暮れ、街灯もない小路にその人の低い声だけが響く。じっとり湿った空気はその声色をより重くしているようだった。


ざり、地面を踏みしめる音がして反射的にそちらへ顔を向ければ先程の男がゆらりと立っていた。ぷっと唾を吐き、卑しく吊っていた口端には血が滲んでいる。


「さっさと去ね」


凄むその人に男は憎々しげに睨み付けるが、歯の裏で小さく舌打ちしてそのまま去って行った。


やってくる静寂。何が起きたのか分からなかったが、とりあえず助かったようだ。男の去った方を見ながら上擦っていた胸を押さえる。死ぬかと思った。


その事実にぶわりと嫌な汗が噴き出す。







あそこまで身近に感じた事などない。低く、それでも激しく打ち鳴る鼓動。大丈夫、自分はまだ生きている。





「もし」


はっと声のした方を振り向く。立っていると思っていたその人は目線を合わせるよう膝を折ってくれているようで距離が近い。


「怪我は」


ぎこちなく二、三度首を振る。そうか、と言った声には安堵の色が混じっている。灯りが少なく、その人がどんな表情をしているのか不明確だが、きっと笑んでいるんだろう。そう分かる優しい声色。

よいしょ、と立ち上がったその人につられて視線を上げる。


「立てますか」





ぱしん…っ





乾いた音が辺りに響く。

差し出された手を思い切り叩いてしまった。全身の血液が一気に下降する。謝罪を口にしようにも喉から漏れるのは掠れた音ばかり。陸に打ち上げられた魚のように、青ざめた顔でパクパクと口を動かす私はなんと滑稽で醜く映った事だろう。


「これは…いきなり申し訳なかった」


命の恩人の、更にその厚意を跳ねつける真似をしたのは私の方だというのに。そのような言葉が返ってくるなど微塵も予想しておらず呆然としていると、恩人はまたゆっくりと膝を折った。今度は少し距離を取って。


「そなた、行く所が?」


一瞬、躊躇いふるりと首を振る。


「では戻る所であったか」


ぶるん!乱れた髪をより乱すように思い切り首を振る。目の前の人は虚を衝かれたようだった。そうか、と呟いたきり黙ってしまう。


そうだ、私はこれから先一体どうしたらいいんだろう。地面に擦れ砂まみれになった着物の裾を握りしめる。握り込んでしまった砂が爪と共に手の平に食い込んだ。


「…時間も、時間であるし、おなご独り放っておくわけにもいかぬ。………少し行った所に我が家がある。一度そこで落ち着かれてはどうか」


思案してから告げられた提案に、ぽかりと口を開けてしまった。滑稽さにより拍車が掛かったことだろう。


「差し支え無ければ、だが」


どこまでも優しい声色。無礼を働くばかりの私を怒るでもなく誹るでもなく、ただ温かい。


何故見ず知らずの女にこうも親切にしてくれるのだろう。




疑問と少しの不安と、すがり付いてしまいそうな衝動を抑え、首を縦に下ろした。


2

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