この優しい方は私のような見ず知らずの怪しい者でも気兼ねせぬよう気を遣って下さる。どこまでも出来た懐深い方。

私に出来る事などたかが知れておりますが、それでも受けた御恩を少しでも返せるよう誠心誠意込めてお勤めを果たします。



「…私、少しばかり甘く考えておりました」

「…申し訳ない」


眼前に広がる物、物、物に溢れた元は部屋という名の樹海。それが部屋数と同じ数程あると言うのだから。家が大きいというのも考えものだ。


「…小蘭?」

「え、あ、はい」

「その、大丈夫か?」


心配そうに伺ってきた真田様にぼんやりしていた事を謝罪すると、「そちらもあるが」と視線は私の足元に向けられた。

続いて追えば目に入る綺麗に巻かれた包帯。御方の意図する事を理解して、ええ、と一つ頷いた。


「真田様が丁寧に巻いて下さったので痛みは全く感じません」


ほら、と無事を示すようにその場で軽く足踏みしてみせれば真田様は慌てて声を上げた。


「もうよいもうよい!」


両の二の腕に手を伸ばされれば簡単に止められる。肉付きの悪い私の腕などすっぽり握り込まれてしまうのだ。

だが肉付きの良し悪し、それだけではない。そこに存在する絶対的な男と女の差を感じ、びくりと反応してしまった。

蘇る昨晩の出来事。

抗えぬ力の差、突き付けられる殺気、立たされる死の淵。



血の気が失せていたのかもしれない。処理能力が一気に低下した頭とお飾りになってしまった眼球を通して見た真田様は驚かれた御様子で、苦々しく眉を歪められていた。


「…分かったから、無理をせずともよい」


よいな。酷く優しい声色で告げられ、ゆるゆると首を縦に振る。御方も軽く頷いて、ではあちらから始めよう、と一つに結われた長い髪を翻して足を向けた。


「…申し訳…ございません」


震えぬよう抑えながら発した声は蚊の鳴くようなものではあったが、凛々しい背中には届いていたのだろう。


「そなたが気にする事ではない」


肩越しに向けられた柔らかい笑みにどれだけ心救われたかなど、学のない頭では一生掛けても表現する事は出来ないと思った。






どのくらい没頭していただろうか。気付けば陽は真上に昇り、朝の涼しさはとうの昔に形を潜めていた。

一通り片付いた部屋を見回して満足感に浸る。屋敷内部の惨状を目にした当初こそ打ちひしがれたものだが、片付けるに従ってある事に気付いた。

塵が溜まっている訳でも家具が破損して転がっている訳でもない。ただ、出した物を直す事が出来ていないだけ。

直す場所を忘れたのか面倒だったのかは分からない。しかしこの程度の散らかり具合ならば屋敷全体を考慮しても半刻あれば終えるだろう。

庶民の間ではまだ珍しい西洋風の衣服を畳みながら予想を立てた。


(本来の『散らかる』はこういう事を言うのかもしれないけれど)


もっと酷い『散らかった』部屋を目にした事がある。

二度とお役目を果たせない程に破損した家具。獣が爪を立てたのかと思わせる壁の刀傷。艶やかに広がる姐やのお着物…



廊下から足音が聞こえ、はっと気を戻す。鮮烈に蘇った記憶を掻き消すように頭を振って、足音の方に目をやった。


「小蘭、此方は片付いた。そちらはどうだ?」

「はい、私の方も」


室内を一瞥した真田様の口から感嘆の声が漏れる。きらきらと輝く瞳で「久しく床を見た」と仰られた時はさすがに瞠目したけれど。


「そなたは凄いな。俺の倍の部屋数を片付けてくれただろう。それにどの部屋も全て美しかった。ありがとう」

「いえ、多少慣れているだけでございます」

「以前にも家事手伝いを?」

「…はい、似たような、事を」


私の歳で奉公に出るのはさして珍しい事ではない。もっと幼いながら働きに来ている子はたんといる。それを思ってか歯切れ悪く返す私に真田様はそれ以上追求する事なくひとつ頷いて「そう言えば」と話を区切った。


「陽も高い。そろそろ腹が減ったな」


さり気ないこの方の優しさに私は甘えてばかりだ。



急ぐ事はないと仰る真田様。しかしお腹は正直な様で言葉と反し、ぐううと盛大に泣き声を上げた。


「…いや、あの、これはだな」


赤く染めた頬を引っかきながら視線を泳がせる主はまるで悪戯が見つかった子どものよう。


笑ってはいけない、笑っては失礼だと自身を咎めるものの湧き上がるそれを抑えきれず、つい吹き出してしまった。くすくす笑う私に真田様は大層驚かれたようだった。


「…今回ばかりは腹の虫に感謝しよう」

「はい?」

「いや」


ふるりとかぶりを振って飯にしようと笑った。

厨には乱雑に置かれてはいるものの、意外にも食材に溢れていた。これならば新たに買い出しに行かずとも済みそうだ。

凝った物を作ってもよかったが、主の腹の虫の事を考えたら手早く出来る物がいい。着物の裾をたすき上げて軽快に包丁を鳴らす事に専念した。


「真田様、何故あのようにたくさんの食材があるのですか?」


食後のお茶を渡す際に問うてみる。食材が多いに越した事はないが、一人暮らしが買い溜めしておいたにしても多いように感じた。主は湯気のくゆる湯呑みを受け取り「ああ」と頷く。


「裏手に小さな道場があるのは知っているか」


庭の掃き掃除をしている時に見たなと思い出す。小さく、決して綺麗だとは言えなかったが趣と厳かさを纏う道場という印象を持った。頷き答え、続きを聞く。


「師から分家を任され其処で師範をしていてな。稽古の合間、門下生達に飯を振る舞っておるのだ」

「わ、すごい…!でも真田様が、ですか…?」


家事という家事はからっきしだと御本人から既に伺っているし、我が目でも確認済み。失礼ながらも恐る恐る訊ねれば「まさか」と笑われた。


「連れに料理の上手い奴がおるのでな。そいつに任せている」


ぶつくさ言いながらもやってくれるので甘えておる。まるで少年のような顔で話す様子から如何にその御方へ気を許しているか伝わってくる。

素敵な方なのですね。そう告げれば快活な返事が戻ってきた。


「また明日にでも皆にそなたを紹介しよう」

「…はい、楽しみにしております」


朗らかな表情に私の頬も緩んでいく。ふ、と肩の力が抜けた事に気付いた。


(とても、温かい)


まるで心地良いお湯のような。強張って体から無駄な力が抜けていくのが分かる。

時が許す、もう少しだけ温かな空気に触れていたい。そう思っている自分がいる事に驚きを隠せなかった。

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