弐
犬神憑き。
地方に伝わる犬を贄とした呪術。飢えさせた犬の頭部を切り落とし、その顱骨を祀れば一族に多大なる繁栄をもたらすという呪。
しかし代償として一族には末代に渡って犬神が憑き、忌み嫌われる。
獣のような耳と裂けた口。その様相や身の毛もよだつ程に禍々しく、最初は外見から、そして徐々に人間らしさは失われ最期には人にも犬にもなりきれない醜き獣と成り下がる。
栄華の代償を一族身を持ってして償わせるという憑き神の一種…
「っていうのが俺様の知ってる犬神憑きなんだけどね」
「…そう言われてもな」
訝しげに見つめる佐助に幸村は困ったように頬をかいた。佐助は頬杖をついている方の指でとんとんと頬を打ち、思い付いたように上体を正す。
「見た所旦那にはそんな症状は現れてないし…ちょーっと失礼」
「な、なんだ!?」
佐助は幸村の頭を無遠慮に掴んだかと思うと、わしゃわしゃと髪をかき分け始めた。いきなりの事に驚かない筈も無く、「うぐぉお!?」と幸村の男らしいが些か間の抜けた声が響く。
「もしかして髪に隠れて犬耳が生えてるとか。うげー嫌だぜ俺様、野郎の犬耳なんてー」
「嫌ならば止めればよかろう!それに犬耳など生えておらぬ!」
「あら?いつの間にか仲良しね」
音も無く背後の襖を開けた彌生は、二人じゃれ合うその光景に驚きつつも微笑みを向ける。
は、とお互いの距離と構図に気付いた当の二人は「違う!」と声を上げるが、重なって反応する姿に彌生は笑みを深めるだけだった。
「話を戻すけど旦那の一族ってほんとに犬神憑き?」
「ああ、それは間違いない。父や兄には佐助が言う程とまではいかずとも症状は出ておった」
「幸村だけに症状が出てないの?」
「うむ。しかし俺にも憑いている事は確かだ。自分の中にまた別の存在を感じる」
物心つく前から感じていた。遥か遠くを思わせる程に小さな声と気配。それは歳を負うごとに近付き、大きくなっていった。
当たり前だと思っていたその存在が実は忌み嫌われている物だと知ったのはいつだっただろうか。
「旦那だけねえ…」
呟いた佐助の言葉は誰の耳にも届かず、小さく溶けていった。
幸村の話を聞いていた彌生は少し目を眇め、じっと目の前の幸村を見つめる。
視線の先にいた幸村は特に崩れていた訳でも無いのに改めて姿勢を正す。
「確かに幸村に憑いてる。それも奥深くに」
彌生は左手でそっと佐助の袖を掴み、右手で幸村の頬に触れた。少女を介して三人が繋がる。
彌生の掌が頬に触れた瞬間、最初から凪いでいた心がより落ち着いていく感覚を幸村は抱いた。
あたたかい。
「…ああ」
彌生の静かな声に気付いて、いつの間にか閉じていた瞼をゆるゆると上げる。
「何か分かったのか」
訊ねれば彌生は哀しげに目を細めた。
「…そうだったの」
「は……」
呆けた声が出たと同時に幸村の中でどくんと何かが波打った。
……た…―てた…―じてた
な の に
彌生は佐助の袖を掴んでいた左手に力を込める。若草色の小袖に大きく皺が寄った。
指先が白じむほどにきつく結ばれた拳を包み込むようにそっと大きな手が置かれる。
馴れ親しんだ体温を感じて、彌生は少しだけ力を緩めた。
落ち着かせるように深い息を二、三度吐く。
「幸村、ちょっと確認させて」
「うむ」
静かな湖面を思わせる瞳に幸村も姿勢を正す。真正面に静座した彌生は小さく息を吸った。佐助は黙って傍らで様子を見ている。
「お手」
ぽすん
!!!!
不意に差し出された少女の小さな手に、思わず乗せてしまった手を慌てて引っ込める。幸村の顔は熱湯をかけられたかのように真っ赤に湯だった。
「なっ、なななな」
俺はなにを!
しかし当の彌生は嬉しそうに微笑み、佐助に至っては肩を震わせて笑いを堪えている。それがより羞恥心を煽り、更に顔の熱は高まった。
「大丈夫、幸村。見込みがあるわ」
「…それは俺が犬になる見込みがあるという事か」
佐助はとうとう腹を抱えて笑い出した。
彌生は「佐助」とたしなめてから言い方が悪かったわねと謝った。
「そうじゃなくて。犬神を祓える可能性よ」
「祓えるのか…!」
「まだ分からないけれど…希望がないわけでもない」
「そうか…っ!」
先程の羞恥はどこへやら。歓喜に奮えそうになる身体を抑え、膝に置いていた拳を握りしめる。
忌まわしき呪縛から一族を解放出来る…!
「でもこれだけは忘れないで」
告げる彌生の顔を見る。
「どれだけ時間がかかるか分からない。もしかしたら祓えないかもしれない。それでも心を強く持っていて」
何があっても。何を知っても。絶対に。
真っ直ぐ向けられた瞳。
『強く』
この呪縛を断ち切らんと誓った時からずっと信念として抱いていた。だからずっと変わらない。今までも、これからも。
「分かっている」
そう言って頷いた。そんな事、分かりきっていた。
…この時、彌生の瞳には俺なんかが到底思いもしない真実が見えていたのかもしれない。
それに気付くには、俺は全てを知らなすぎた。
見ゆる少女は真実を