陸
佐助とのやり取りがあった同日。陽が傾き、黄昏が流れはじめた時刻から光秀による解呪の見立てが始まった。
部屋は薄暗く黄昏すらも息を潜めている政宗の私室。部屋の中心に一組敷かれた布団の上には部屋の主が横たわる。
その周囲を取り囲むようにして立てられた数本の蝋燭。炎に当てられて温かく浮かび上がる筈の室内は朧気に霞み、時折大きく揺れる。
同じ室内にも関わらずまるで蝋燭の内部だけを断絶するように光秀が配置したのだ。
耳が痛む程の沈黙が流れる。時すらも止まったのではないかと錯覚させる空間の中、唯一動くのは蝋燭の炎だけ。
じじじ
鼓膜を震わせる炎の焦れる音。
「…頃合い、ですかね」
部屋の片隅で壁に背を預けていた光秀は閉じていた瞼をすうと上げ、傍らに置いていた自身の得物を手にする。感触を確かめるように、可愛がるように。
蝋燭の灯りは片隅まで届かない。しかしゆらりゆらりと蠢く白刃と光秀の独特な銀糸の髪だけは当然のように浮かび上がり存在を誇示している。
ゆらり、ゆらり。戯れに柄を転がし刃を揺らす。同調するかの如く炎が瞬いた。
それを視界の端で捉えた光秀は溜め息こそつかないものの至極面倒と言わんばかりに目を瞑る。
「あまり気の長い方ではないのですが」
ゆらり、ゆらり。変わらず揺らぐ白刃と炎を眺めながら子猫でも愛撫するように柄を弄んだ後、死神の細く白い指先が一層白じみ強く柄を握り込んだ。
「そろそろ正体を見せていただきますよ」
長柄の鎌を持ち上げ、ずらりと横に切り裂いた。白刃の残像が空間に残り、とろとろと蝋燭の灯りと溶け交わろうとするその狭間。
「…おや、」
断絶された内部。そこには炎によって生じた影を集めて出来たような不完全な、しかし確かに人間の形をした何かが、政宗の上にのしかかっていた。
開始して数時間、辺りは既に夜の帳が落ちている。解呪に向かった政宗と光秀の二人と別れた彌生は先にあてがわれた部屋で一人待機していた。開け放たれた窓から青白くも優しい月明かりが差している。
「はあ…」
女中の淹れてくれた茶は既に湯気を上げる事を忘れ彌生の手のひらに包まれ所在無さげに佇んでいる。緩く波紋を作る水面には小さな月が映り込んでいた。
「大丈夫、かなあ」
光秀を心配しているのではない。性格は難有りだが腕だけは確かな事を知っている。腕だけは。
彌生の心配の種は呪を受けている政宗の事。呪そのものは珍しい事ではない。権力、金、勢力争い。生臭い欲が混濁する所では呪の応戦など当たり前。
問題なのは呪の送り主。
大抵が血族、若しくは親しい間柄の者が多く、その繋がりが近ければ近い程呪の効力は強まっていく。肉体を弱らせるよりも精神を蝕み壊してしまう事こそが呪の本領なのである。
「政宗…」
「なんだよ」
「へっ」
なに間抜け面晒してんだと柳眉を不可解そうに歪めるその人。彌生の間の抜けた声も当然と言えよう。呪の影響を危惧していた本人が襖を引いてけろりと現れたのだから。
「人の名前呟いて憂いてんなよ。なんだ?俺が恋しくでもなったか」
「いや違うけど」
「阿呆。ここは頬染めて視線外すかくらいするところだろ」
なってねえなと流れる動きでピンと鼻先を指で弾かれた。予想外のだめ出しと部位の痛みに彌生は釈然としない様子で小さく痛む鼻をさする。
ぶすつく彌生に政宗はくつりと喉を鳴らして笑う。でもそれは嫌味を含んだそれでは無く、まるで猫でもからかう楽しそうな笑み。
ひとしきり笑ってから、男は未だぶすつく彌生に視線を合わせ、ひとつ提案をした。
「時間、あるか?少し外で話がしたい」
青い月光を背に受ける竜の血を受け継いだ男。それは常に自信を纏っている男をより強く、そして儚くにも見せた。
「いいよ」
微笑んだ男の目が泣きそうに歪んでいる事は気付かない振りをした。
人一人がやっと通れる程の細い道を政宗の後を追って歩く。道と言っても幾度となく踏みつけてようやく出来たような簡単なもの。
何度も突っかかっては体勢を崩す彌生に先を歩いていた男は呆れ顔で手を差し伸べた。
「ありがとー」
「本当に鈍臭ぇな。ほら、もう少しだ頑張れ」
「はいー」
所々混じる悪態も幼い子どもがじゃれ付くような可愛い心地良さがある。空気や語調から目の前の男の機嫌を感じとり、彌生の口角も自然と上がった。
まるで国主とは思えない彼は一体何処に連れて行ってくれるのだろうか。
「湖…?」
「ああ、俺の一等気に入ってる所だ」
しばらく進むと突如拓けた場所に出た。そこには大きな湖が鎮座し、夜風に湖面を揺らしている。水面は月の淡い光を受け輝く様は静謐だが絶対的な存在感がある。何ものも侵してはならない領域。
静かに深呼吸をし、彌生はそっと政宗に呟いた。
「ここの空気、すごく好き」
「竜は水に属すからな。自然と神気が集まりやすいんだよ。此処は特に質のいい神気が満ちてるんだ」
「だからか…」
「神籬のお前にはたまんねえだろ?」
とろけた笑みを見せて頷く彌生に政宗も満足そうに目を細めた。
水面から浮かぶ幽かな光はまるで蛍のよう。青白く照らされた幻想的な光景に心奪われ、二人は暫しの間見入っていた。
「呪の出先が分かった」
不意に口火を切ったのは政宗。彌生が見上げても男の視線が絡む事はなく、正面に縫い付けられたまま。蛍火に照らされた顔の表皮は淡く滲み、政宗と背後の暗闇との境目を朧気にさせる。
ひとつの蛍火が二人に近付く。頼り無げに浮かぶそれを無意識に眼で追い、かちりと視線が混じり合った。
「竜神、血を分けた俺の母親からだ」
不恰好な声にもならない声が彌生の喉から潰れた音として漏れる。
蛍火はからかうように二人の間を浮遊して、そのまま姿を消していった。