神籬の森





「馬鹿じゃないのか」

「…うるさいなあ」


遠慮のない辛辣な言葉に佐助は眉を顰めた。降り注ぐ陽光を受けきらきらと水面を反射させる小さな池の前で膝を折る。

小さな池と言ってもその広大な庭園と比較すればであり、他所とは比べものにならない程大きく立派だ。

袖を気持ち程度捲り上げ、指先を浸してくるくる回す。突如出来た波紋に鯉達は慌てて散っていったが、佐助は指を止めようとはしなかった。

照りつける太陽は今日も変わらず容赦がない。こんな暑い日に彌生は大丈夫だろうかと心配したが、そうだあの子はここよりもずっと北の方にいたんだったなと息を零した。

屈んだまま溜め息しかつかず、それ以上何も言わない背中にかすがは続ける。


「これでもっと帰れなくなったぞ」

「いや、別に途中放棄するつもりはなかったけどさ」

「だが一時でも神籬の元へ帰れたかもしれないのに。ああ言えばその時間さえもなくなったろうな」

「そりゃあね」

「…後悔、してるんじゃないのか」


肩越しに彼女を忍び見る。腕を組み、無表情なのにどこか苛ついた視線を遠くに投げていた。

彼女が言っているのは己に宛てられた任は必ず全うすると告げた事。

鬼と神。

相反する存在である鬼を彼女の主は助けると言う。

しかし鬼一人を助ける事の大変さは広大な土地や山を治める大神が、しがない妖である自分に助力を願った事から容易に想像出来た。

彼女だって充分承知している上でのこの質問。それは神籬である彌生を一人残してきた事を案じているからなのだろう。

しかし今回この依頼を受けたのは彌生自身の希望でもあった。

種族も位も違う三者が手を取り協力しようとしている。それほど素晴らしい事はないと彌生がとても嬉しそうに笑うから。

もう一度、後悔なんかしていないと緩く首を振って伝えた。

ちゃぷんと水が跳ねる。鯉はもう随分向こうへ行ってしまった。浸していた手を上げ、ふと目を細める。それに気付いたかすがはなんだ、と促した。


「なんだかんだで彌生に会わせようとしてくれんだ。やっさしーねー」

「気色の悪い勘違いをするな。貴様なんかいなくても私一人で謙信様のお役に立てるからな。それに彌生は神籬だ。あいつに何かあれば私達にだって何かしら影響が出る」

「ほんと、うちの彌生ってば愛されてるう」

「うるさい」


ぴしゃりとはねつける物言いに苦笑を溢す。きつい言葉を連ねながらも心根は優しい女だという事は長い付き合いで知っていた。


「そういえばさっき彌生と繋がっている云々と言っていたな」

「ああ、うん。ここ」

「心と心で繋がっているなどとほざいたら切り刻んでやろうと思っていたんだ」

「怖っ!なにそれ怖っ!……ったく、元が刀だからか知んないけど、かすがは好戦的過ぎるんだよ」


呆れたとばかりに肩を竦める佐助に、聞き捨てならないとかすがは微かではあるが片方の眉を吊り上げる。


「その辺りの刀と一緒にするな。私は守り刀だ。守り刀は守るべき御人の為にしか刃を立てない。…が、お前だけは私自身の感情に従って八つ裂きにしてやりたくなる」

「ひどい!守り刀のくだりを聞かされた分余計ひどいし痛い!」


つんと無視するかすがに先程の評価は間違えているのかもしれないと一人項垂れた。



――――りん、



鈴、と認めるには幽かな音。しかし確かに耳に届いた音の出所を辿る。目の前の池からその音は発生していた。


――…りん、りん、りん、りん、


まるで鋭利な刃物同士を合わせたような感高い音が間隔短く池から発せられる。それに同調するように池の中心から細かに波紋が出来ていた。


―――りん!


一際高い音が鳴ったかと思うと細かく揺らめいていた水面がまるで一瞬にして氷が張ったように動かなくなった。そこに映し出された人。


「彌生!」

「あ、佐助だ。よかった、ちゃんと繋がった」


件の人の突然の登場に呆気に取られている二人に構わず少女は嬉しそうに手を振っている。反射的に佐助がふにゃりと表情を緩ませて手を振り返していると彌生の横からにゅうと何かが現れた。


「何を呑気にうっふりした雰囲気を出しているのですか。水鏡越しですよ、あなた方は少し自重という言葉を覚えたらどうなんです」


心底呆れた顔を覗かせたその人の姿を見た佐助から表情が失せ、瞬時に殺気すら放つが、それとは正反対に光秀は優美に唇を左右に引いた。全く相反する声が上がる。


「久方ぶりですね、護衛鏡」

「…アンタ何しに来たのさ」


何しに、光秀は口先で佐助の言葉の意味を理解するように繰り返した。


「あなたの大切な神籬のお供をしているのですよ」

「は?お供?何言って………そこ、社じゃないな」


光秀の言葉を訝しげに聞いていた佐助が水鏡越しに映る背景の違和感に気付き、彌生に視線を向ける。ぎくりと肩を震わせて視線の先の少女は「あ、あのね?」と首を傾げてみせた。

しかし彌生が口を開くよりも早く、佐助の表情が厳しいものに変わり彌生の喉から引きつった音が漏れる。


「…彌生?俺様何度も口酸っぱくして言った事、覚えてる?」

「あ、怪しい人に付いてっちゃいけません」


怪しい人とはまたご挨拶ですねと、さして気にした風でもなく呟く光秀を軽く無視しながら、佐助は彌生に真っ直ぐ視線を向けたまま続ける。


「そう、そうだね。もう一つは?」

「か、勝手に社から出ちゃいけません…」

「うん、よく出来ました」

「さす」

「で、なんでそこまで分かってるのに俺様との約束破ったのかな?」

「それは、その…」


目を泳がせる彌生の返答を待つ間、浮かべている微笑みはいつもと同じものなのに。


(こっ、こわい……っ!)


水鏡越しにも関わらず、まるでそんな物存在しないかのような圧力と絶対零度が身を潰す程伝わってくる。


「…話の途中悪いが、俺が説明した方が手っ取り早いな」

「政宗」


顔面蒼白でガタガタ震える彌生を見ていられないし話も進まないと政宗が顔を出す。

肩に乗せられた大きな手のひらに詰めていた息をほっと零した彌生はそそくさと水鏡の前から退いた。こっそりと小十郎の陰に隠れた彌生に佐助は微かに眉を吊り上げつつ、名乗り出た隻眼の竜に冷ややかな笑みを向ける。


「俺の大切な彌生を連れ出す程の理由……聞きましょうかね」




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