神籬の森




その男は気配もなくふらりと現れ、縁側に腰掛けひらひらと舞う蝶々と戯れる少女の隣へ座った。

せわしなく舞っていた蝶々は少女が指を差し出すと誘われるままに羽根を休めた。蝶々の羽根だけがゆらり、ゆらりと揺れる。

しかし暫く緩やかに留まっていた蝶々だが居心地のいい少女の指先から渋々といった様子で離れていってしまった。

ああ、と残念な声を上げる少女に男は穏やかな、それでいて少し楽しそうな声で「おや、これは申し訳ない事をしました」と謝罪した。

彌生は行ってしまったそれを名残惜しそうに見つめてから、「いいよ」と男に微笑みかける。


「久しぶりだね光秀。どうしたの?お仕事は?」


彌生は下ろしていた足を上げて、膝を抱え込む。落ちた草履がぱたりと乾いた音を立てた。


「近頃商売上がったりでしてね。小さな戦ひとつ起きやしない」

「それだけ平和って事ね、いいことだわ」

「私からすればたまったもんじゃありませんよ。死神なんて生業、他に潰しが効きませんからねえ」


やれやれと肩を竦める光秀に彌生は難しいもんだねと小さく苦笑した。

死神と名乗るこの男、光秀は時折思い出したようにふらりとやって来る。まるで蝶々が芳しい花の香りに誘われるようにまたこの男もある香りに誘われてやってくる事があった。

最後に会ったのはいつだったかしらと訊ねれば、「いつだったでしょうか。会う時は頻繁に会いますから」と返される。

それもそうか。会う時は会うのだ。

それもまたどうしようもない時代と時期のせいだった。


「そういえば母親のような鏡はどうしたのです。私が来たら一目散にやって来て間に割り込むというのに」


もはや盲目的と言っても過言ではない程、この神籬に執着しているあの鏡がいないとは珍しい。

…ああ、だから。

違和感の正体に納得する。いつも例の鏡越しに彼女と話していた。目障りと思えてならなかった派手な橙が無ければ、彼女はこんなにも近く、落ち着いた色を纏っている事にさえ気付く事は無かったのだろう。


「佐助?佐助は今春日山の土地神のお手伝いで南の地に行ってるの。だいぶ行くの渋ってたけど」


こんなに佐助と離れてる事って今までなかったなあと首を捻る彌生に、たまにはいいんですよと笑う。


「ここも暫く来ないうちに賑やかになりましたねえ。…魂の残り香しかしませんが妙な人間と犬神……おや、天狐まで」


背後の社内をぐるりと見て、さすがですと言えば、ただ彌生は微笑むだけ。


「元就、あ、天狐の子ね。この子は書物室に籠っちゃうし、幸村と犬神は里帰り。だから私一人、暇で暇で」


ぐっと腕を伸ばして、ふうと一つ息をはく。


「だから光秀が来てくれて嬉しいよ」

「おやおや、私はただの暇つぶしですか」


そんなんじゃないよと屈託なく笑う神籬に死神も銀糸の髪を少し揺らした。


「しかし今日はあなたに用があったのです」

「だろうね。じゃないと来ないもんね」

「分かっていながらあんな口説き文句を言うなんて。あなたも大概意地が悪いですねえ」


ふふふ、と妖しく笑う光秀とは対照的に彌生も楽しそうに笑う。

それで、と続きを促す彌生に光秀は持っていた鎌を置いて、目の前の少女をじっと見つめる。

そして細く長い指先でするりと大きな右目を撫でた。


「死臭がね、したのですよ」


触れていた指を離し、変わりに顔を近付け、右目に鼻を寄せた。すん、と小さく鼻を鳴らして、どこか楽しみを覚えた声でここからでしたかと呟いた。


「あなたの右目から」

「…私の右目から?」

「ええ、微弱ではありますが確かに。職業柄、自信はありますよ」


微笑みを携えながら話す死神に、少女は自身の右目に触れる。

痛みも無ければ特に支障もない。それにも関わらず目の前の死神はこの右目から死臭がするという。それはとても奇妙な事に感じた。


「そっか。光秀が言うんだからそうなんだろうね」

「怖くはないのですか」

「今悩んでも仕方ない事だもの。なるようになるわ」


あっけらかんと答える彌生に、奇特な方ですねえとまた楽しそうに一つ笑った。






雲間を鋭く切り裂いて何かが空を横切る。一瞬遮られた陽光に無意識に空を見上げれば、それはゆっくりと少しの風を起こして二人の目の前に降り立った。

深い焦茶の色を纏う竜。

しなやかで長い身体には魚よりも随分大きな焦茶鱗で覆われ、跳ね返された陽光はまるで無数の刃物のように地面に突き刺さる。

降り立った竜が身を正すように深々と頭を下げると、刺さった無数の光もそれにならって動きを同じにした。


「失礼仕る。貴殿は神々を束ねる神籬様で有らせられるか」


鼓膜を震わす低い声。普段自分を護る鏡とはまた違う類の心地よさを耳に感じながら、突然の来客に戸惑う事なく彌生はにこりと微笑んだ。突然の来客など日常茶飯事であった。


「ええ、あなたは?」

「奥州伊達に仕える片倉小十郎と申します」

「ほう、伊達の」


光秀が面白そうに呟く。未だ頭を下げている竜に彌生は声を掛け、頭を上げさせた。

竜の左頬には刀で付けられたような古傷が一陣走り、それを掠めるようにして金の髭がゆらりと流れる。

しかし流れる髭とは対照的に鋭い双眸にはどこか焦りの色が滲み、竜は一息呑んでから切羽詰まった声で続けた。


「我が主の一大事。どうか貴殿に共に来て頂きたい」


突然の言葉に彌生と光秀は思わず互いの顔を見合わせた。




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