壱
険しい山道を黙々と歩く男が一人。肌に纏わりつく空気はじとりとしていて心地が良いとはお世辞にも言えない。汗と湿気で額にへばり付いてきた髪を振り払って男は歩を進める。しかし持ち上げる足は石のように重く、落ち葉が腐り腐葉土と化した柔い地面は嫌にめり込み常以上に男の体力を奪っていった。顔色は悪く、呼吸も荒い。深く刻まれた眉間の皺から苦しげな様子が伺える。
大きく息を吐いた瞬間膝から上の力が抜け、身体が大きく前にのめった。
落ちる。
やって来る衝撃に備え、強く目を瞑る。が、なかなかそれはやって来なかった。
暫くして自分を支えるように掴んでいる感触に気付く。胸に回された逞しい腕。重い頭を懸命にそちらに向けると驚いた顔をした男が後ろに立っていた。
「あっぶねーなあんた。こけるのは構いやしないけど受け身くらいとんないと危ないぜ?ここらは道が荒れてるから痛いぞ」
さっきからハラハラして仕方なくってさあ、思わず出てきちまったよ。男は表情のくるくる変わる瞳で笑った。高く結い上げた髪が笑い声と同調して揺れる。温かみのある笑顔。纏わりつくようだった空気が少し軽くなったような気がする。
不思議な気配をした御仁だ。そう思い、違和を感じた。気配に気付かなかったが、はて、この御方はいつから自分を見ていたのであろうか。
物の怪の類か。一瞬そうよぎったが直ぐ様頭を振る。そこいらを徘徊する魍魎が自分に寄って来る事など万に一つもない。
きっと気配を悟れぬくらい弱っていたのだろう、そう思考を片付けて男は息を整えて膝に手を付き身体を起こす。もう大丈夫なのかい?掴んでいた手は心配する気配を残して外された。
「…かたじけない。某、『生きる神籬』を探してここまでやって来たのですが何か存じ上げませぬか」
「神籬?なんだ、あんた彌生に用事だったのかい」
「彌生?」
「ああ。あんたの探してる人だよ」
案内してやるよ、と気前良く告げた髪の長い男、慶次に付いて行くことにした。俺もそこに用があるからついでだよ。そう言われてしまえば幸村に断る理由などない。
上手く丸め込まれたような気がしないでもないが、何の手がかりも無かったのだ。慶次の言う「神籬」が自分の探しているものかどうか是が非でも確かめなければ話は進まない。
俺の歩いた上を歩きなよ、と疑問に思いながらも言われた通りにすれば先とは打って変わって足取りも軽く、息も乱れない。余程馴れた路なのか、はたまた幻術でも掛けられているのか。疑問と疑心に脳内を侵されようとも、幸村は淀みなく歩を進めた。
「此処だよ」
それは唐突にやってきた。深い木々に囲まれていた景色には似つかわしくない程、綺麗な円を描いて拓けている。その中央にある小さな社。地に足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が一変したのを肌で感じた。ぴりりと引き締まった空気は少しの痛みすら感じる。
しかし嫌悪を抱かせるものではなく、むしろ身を置くだけで身体と共に魂までもが浄化されていくようだった。
「まだ余り歩いていない気が致しますが…もう少しのところであったのでござるな」
「や?きっとまだまだ歩く羽目になってたぜ?」
厄介と言うか何て言うか、ちょっと過保護過ぎるとも思うんだけどねえ。苦笑気味にこぼす慶次。結界、というものであろうか。問うた幸村に頷く。冷たくなるまで探し回る事になんなくてよかったなあ、とあっけらかんと告げる慶次に幸村の背は別の意味で冷たくなった。
「ちょっと待ってな、呼んで来てやるよ」
そう言って口元に手をやり、呼ぶ動作を取りながら声は出さずに口だけをぱくぱくと動かす。
呼びに行くのではないのかと疑問に思っていると、暫くもしないうちに足音が聞こえ始め微かなものだったそれがどんどんと遠慮のないものに変わり、何か来る、と幸村が身構えた瞬間、社の扉が音を立てて勢いよく開かれた。
「さっきからうるっさいんだよ慶次!んな何回も声飛ばさなくても聞こえてるっつーの!」
返すよ!と手に持っていた小猿を慶次に投げて寄越す。慶次は「おっと」と長い手を伸ばし、飛び込んできた小猿を抱き止めた。小猿は怯えた様子で腕の中に潜り込み、慶次の服の中へ頭を隠してしまった。
「そんな怒んなよ佐助。しょうがないだろー?声飛ばすのなんて俺達の間じゃ当たり前なんだからさ」
怖かったなー夢吉ー、と小猿をあやす慶次に、社から出てきた男は腹立たしそうに腕を組んでいる。
「だからって声を猿に変化させんな。猿のおかげで毎回中がめちゃくちゃに荒れんだよ!それに…」
続きを言いかけて、やっと慶次の隣にいた幸村の存在に気付いたのか男の目が幸村を捉えた。突然の事に茫然としていた幸村もはっと姿勢を整える。
鮮やかな橙色の髪の隙間から見えた瞳は一瞬大きく見開かれ、そこに何か映ったように思ったが、次に見た時には何も映っていなかった。
「アンタ…」
奥底が見透かされているような気になる瞳は、先程とは反対に微かに細められ、怪訝の色が見てとれた。
「どうしたの?」
佐助と呼ばれた男の後ろから現れた声と姿。そこには一人の女性が立っていた。
「彌生」
―あれが『彌生』、生きる神籬…!
佐助が庇うように彌生の前に腕を出し、殺気に近いものを放ちながらこちらを睨み付ける。
しかし隣にいた慶次はへにゃりと笑むと「久しぶりー」と呑気に手を振っている。
「今朝会ったばかりじゃないの」
彌生も楽しそうに返し、佐助の腕に触れる。一度目を伏せ、その瞳をこちらへ向けた。
どきりと心臓が跳ね、その瞳に捕らわれたように動けなくなる。
少女は穏やかに微笑み、そして澄んだ瞳と静かな声で信じられない言葉を発した。
「あなた、犬神憑きね」
綺麗に微笑んで彼女はそう告げた。