神籬の森




幼い頃から不思議なものが見えていた。

「人」とも「動物」とも違う外見を持ち、まるで自分達が見えていないかのように振る舞う者達。時折、目のあった俺に恐る恐るながらも近づいてくる者もいたが、大半は気にも留めず通り過ぎてゆく。

稀に言葉巧みに話しかけ、喰おうとした者もいた。幼い自分では何をどうすればいいのか分からず、ただひたすらに逃げていたが追いかけられる度に命の危機に晒されていたのかと問われれば、そうでもない。

「声」が助けてくれていた。

追われる度に助けてくれる自分の中から聞こえるもうひとつの声。


目を瞑っておれ


言われた通りに手で目を覆い、瞼を固く閉じる。薄い瞼の向こうで何かが暴れ、恐ろしい咆哮がしたその直後にはもう自分を追う姿はいなくなっていた。


声は様々な事を教えてくれた。



あれは「妖」という者達で、見えているという事を決して他人に言うてはならぬ

なぜ?

お前が「異形」だと言われない為さ

いぎょう?

儂の声が聞こえている事を言うてはなるまいよ

どうして?

それは儂がお前に…




まるで走馬灯の如く蘇ってくる遠い記憶。声は何でも教えてくれたが、唯一教えてくれなかった事がある。


お前は、だれ?


その答えだけは一度きりでも本人の声で聞く事はなかった。





答えは、最後に尋ねて幾年も経った頃に知る事となる。

呪が表れ始めたのだ。最初は父に。次は兄に。真田の血を継ぐ者として逃れられない忌まわしき宿命。

それにも関わらず俺には一切の兆候が見られなかった。幾度空は移り変わり、葉色は変わり落ちていっただろう。

通り過ぎてゆく日々の中抱く、まだ大丈夫という安堵。いつ表れるのかという不安。そして自分は家族を、一族を救えるかもしれないという希望。

使命感に燃え、その手の事を詳しく知る者を訪ね歩き、文献を調べる日々が続く。

そして長年集めた知識から導き出された予感。


「お前がもしかして犬神なのか…?」


返ってこない返事が無言の真実を語っていた。幼き頃からの疑問。忌まわしき呪い。その両者が分かったにも関わらず、一向にこの同居人を責める気にはならなかった。

無遠慮に罵るには世話に、時間を共にしすぎていた。


今思えばなんと甘く浅はかな考えなのだろう。簡単とはいかずとも、いつか一族を縛り、苦しむ父や兄の呪も解けると。奇妙な同居人とも変わらずいられると何故信じて疑わなかったのか。

そのような考えが通用する方がおかしいというのに。





「…貴様に、犬神に憑かれた俺が父上達を苦しめていた」


詳しい事は分からない。ただ彌生の言っていた「障気」というものが影響しているのは明確だった。


「…何が呪いを解く、だ。笑わせる」


く・と口角を歪めて笑う。足を止め、肩で息をする。鍛えた己の肉体がそろそろ酸素を求め始めたということは相当走ったのだろう。先程よりも格段に鬱蒼とした森には微塵の月明かりも射してはこなかった。

一際大きく息を吸う。


「真実を知らず、奔走する姿はお前の目にさぞや滑稽に映ったことだろう。どうだ、満足か!?犬神よ!」


見えない月へ叫ぶ。まるで同じ獣のように。


「お前は一族を呪い殺したいのだろう?それを見届けるが為に、一族最後の一人になるであろう俺に取り憑いた。違うか!?」


返事はなく、風が威嚇するように辺りの枯葉を散らす。長きに渡り呪を解かんと奔走していた己が原因で、全ての終わりとは。


「…何という皮肉」



くつりと、先程浮かべた笑みとは異なる自嘲を唇に乗せる。湿り気を帯びた風に弄ばれ纏わりつく髪を振り払い、静かに一言呟いた。


「お前の好きにはさせぬ」


俺が今ここで全てを終わらせてやる


懐から取り出した護身用の小刀。鞘から抜き、刀身を確かめるようにかざす。細身のそれは微かな薄明かりの中でさえ妖しく煌めいた。

膝を折り、地面に腰を下ろす。介借も何もない切腹を前に幸村には恐れも迷いもなく、逆に穏やかですらあった。ただ一つ残るのは自分のせいで苦しめてしまった父や兄への懺悔の念。


「申し訳…ございませぬ」


呟き、手にした小刀を握り締める。一点の迷いもなく切っ先は腹へ向かった。





「慶次!」


聞き慣れた声が聞き覚えのある名を呼び、薄桃色に視界が染まる。視界がおぼつかないまま後ろから羽交い締めにされ、払い落とされた小刀が感高い音を立てた。


「なっ…!?」


振り返ろうとしたその瞬間、首に軽い衝撃。強くない力だったが的確に入ったそれで意識が遠のいていく。


「ごめんね、旦那」


意識が途切れ、暗闇へと染まる視界に焼きついたのは尾をひく鮮やかな橙だった。









ひやりと冷たい物が額に当てがわれ、それを押さえていたものが頬へと流れていく。剥き出しの頬に触れたそれは温かく、柔らかかった。


「ん…」


反射的にそれを右手で取る。手のひらに入ったそれは一瞬驚いたように震えたが、すぐに俺の手を握り返してきた。


「気が付いた?」

「彌生…?」


耳に心地よい高さの声が名を呼び、強情に張り付いたままの瞼を無理矢理引き剥がす。そこには心配と安堵が入り交じった表情で覗き込む彌生の顔。

しかし彼女の顔は反対に映っており、不思議に思い微かに首を動かす。どうやら自分の頭の下にあるのは彌生の膝らしい。拒む事の無い、柔らかな膝が心地よくて彌生には申し訳ないがもう暫くそのままでいる事にした。


「ここは…社、か…?」

「ええ。…手荒な事してごめんなさい」


まだ痛む?彌生の手が案じるようにそっと首に触れる。

いいや、と首を振って軽く笑みを返した。実際既に痛みは無くて、よほど綺麗に首に入ったのだろう。さすが佐助と言うべきか、まだまだ自分は甘いということだ。


「旦那、気が付いた?」


すらりと襖を開けて佐助が中に入ってきた。小さな盆には湯呑みが三つ乗り、仄かに湯気をくゆらせている。


「起きられる?」

「ああ」


額に乗った布が落ちないように押さえ、身体を起こす。それほど時間は経っていないのか火の入ったこの部屋以外辺りはまだとろりとした暗闇に包まれていた。

湯呑みを受け取り、唇を湿らせてから、並ぶ彌生と佐助に向き直る。


「全てを教えてくれないか」


頷く彌生。耳にかかった髪がはらりと落ち、彼女の白い肌に幾筋の影を引く。

一瞬、自分のものではない何かがドクリと音を立てた。

ふ・と息を吐き、伏せた目を上げる。



どんな事実であろうとも俺は全てを知らなければならない。










狗は叫び 天を穿つ




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