神籬の森




陽は暮れ、薄墨を流したような空はみるみるうちに漆黒へと表情を変える。

月が高いのか、閉めた障子から庭の木の影が長く延び、布団へ身体を沈めていた幸村の元まで届いていた。


「…む」


何度か寝返りを打つ。普段ならば気にならない布団の衣擦れの音が少しずつ幸村の意識を覚醒させた。暫くして、観念したように上体を起こす。


「…眠れん」


…はあ。うつ向き気味に溜め息を零し、前髪を掻き上げればぱらぱらと額に髪が当たる。視線を下ろした先には己の手にかかる影。

このようにはっきり見えるということは余程綺麗に月が昇っているのだろう。ゆっくりと布団から抜け出し、障子に近付き手をかける。

顔にかかった影が一瞬動いたような気がした。


「…妖か」


慌てる事も、恐怖する様子も見せずに静かに呟く。


馴れた、と言えばおかしいが実際幸村は馴れていた。反対に言えば、神籬の居るこの地へやって来て「馴れない」という事がおかしかった。

殺気や怨念の類いは感じない。おおよそ彌生の元へ遊びにきた妖か、悪意のない悪戯をしていく者だろうと幸村は特に気にも留めずそのまま障子を開けようとした。



耳を掠め、聞こえたのは背筋の凍るような獣の声。びくりと震え、手が止まる。久方ぶりに聞いた、おぞましくも懐かしい声。


「犬神、か」


声は出ていなかったかもしれない。しかし向こうには伝わったのか、先程と呼吸の様子が変わった。

月明かりで朧げに輝く障子の向こうに、ひとつの影が浮かぶ。見据えるように幸村は静かに呼吸を整え、姿勢を正した。


「何用だ」


その声は何の感情も含まず、ただ静かに空気を揺らした。

月光によって晒された彼の者の影がゆうらり、ゆうらりと障子に揺れる。




…―長かった。長かったぞこの幾年。どれほどこの時を待ち焦がれた事か。ぬしが全てを知る時が今ここにきたのだ。




「俺が、全てを、知る?」


話が見えず、反射的に眉を顰める。しかし声の主は構わず続けた。




手を伸ばし、耳を傾け、目を見開き全てを捉えよ。おぞましき過去を。儂の屈辱を。ぬしの、




そこまで聞き、幸村の手はいつの間にか障子に伸びていた。



暫く息を潜めていた憎き相手。月夜に酔うて誘われ出でたか。

それとも酔うて、まんまと術中に嵌ったのは己の方か。



―そんな事どちらでもよかった。


この障子を開けた所に奴がいる。一族を苦しめ、まだ見ぬ我が未来を蝕む奴が月光の元、俺の目の前にいる。


自分の物ではないような感覚に捕らわれながら、幸村は手を止める事が出来なかった。





指先を掛け、様子を窺う為に障子を少し横に引く。

映った光景に幸村は瞠目した。


青白い月夜の中に浮かぶ物の怪がいるとばかり思っていたが、障子の向こうにいたのは蝋燭の灯りによって更に髪の鮮やかさが増した佐助と、彌生の姿。

光の当たり加減のせいで彌生の顔には影が挿し、表情がわからない。






「山神の爺さん何だって?」


幸村は犬神の呪術にかかったのかと慌てて離れようとしたが、昼間聞いたばかりの名に閉めようとした手を止めた。

二人は幸村の存在に気付いていないのか、蝋燭で照らされた部屋の中で変わらず話している。

佐助は手元で開かれた古い書物に流れるように手をかざして、水晶の器に注がれた水で指先を濡らし何かを描いた。

すると紙面の文字が水を得た魚のように動いては飛び跳ね出す。もう一度佐助が手をかざすと、それらは吸い寄せられるように佐助の掌へ跳ね付き、腕の表面を絡み付くように泳ぎながら昇ると、ゆっくりと消えていった。

ふ・と小さく息を吐いて佐助は彌生からの返答を待つ。彌生は文字のいなくなった劣化の進んだ紙に視線を落としている。暫く見つめた後、ゆっくりと口を開いた。


「犬神は一族のたった一人にしか憑かないそうよ」


ぽつりとただ一言。幸村は自分の事を話している事には気付いたが、その言葉の意味する事が分からない。

しかし佐助は弾かれたように顔を上げた。


「旦那は…その事気付いてんの?」


彌生は頭を降る。依然として顔は下を向いていた。


「幸村自身の力である程度抑えられているみたいだけど…」




どくん




「でも旦那のお父さんとお兄さんには影響出てたよね」




どくんどくんどくん




心臓が早鐘の如く耳を打ち、二人の声が段々と小さくなる。幸村はその場に打ち付けられたように動けなくなっていた。


「抑えきれなかった障気が周囲に影響を…」




…ガタン!




彌生が口をついた瞬間、佐助が勢いよく振り返る。そこにはうっすらと空いた障子と、隙間から差し込む不気味な青白い月光。


「しまった…旦那…!」











ザ・ザザザザザザ…



鬱蒼と繁った森の中を裸足で駆け抜けていく。

あれほど綺麗に全てを晒し出していた月明かりも僅かにしか届かないここを、ただ一心不乱に走り続ける姿はまるで気違いのように映るのだろうなと、どこか冷静な頭で思った。


(いや、おかしいのは確かか)


皮肉めいた自嘲を浮かべる。

気付いてしまった。全てを理解してしまった。「自分」という存在の意味を。




『犬神は一族の一人にしか憑かない』




それが一族最後の一人だとしたら?

憑かれたそれが周囲に影響を及ぼしているとしたら?





―それを絶てば全てが終わるとしたら?





呪に苦しむ父や兄の姿を思い出して拳を握る。





「…全ての原因は俺だった」





―…どこかで一際大きく長く、狗の声が響いた。









烏の仔は哀しき事実を残酷に



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