こんなプロローグ



かぽーん・


鼓膜を揺らす独特な音にはっとして辺りを見れば私はお湯の中にいた。露天風呂だろうか。湯気で辺りはおぼろげだが中々広いように思う。

少し熱めお湯が心地よく、条件反射的に溢れる溜め息をついて冷えた肩にお湯をかけた。温泉なんて久しぶりだ、気持ちいいなあ。

湯を裂くようにして、ぐっと腕を伸ばしたその時、背もたれにしていた大きな岩からひたっと奇妙な音がした。


「うほっ、いーい眺めだねえ」


咄嗟に両腕を交差させて前を隠し、岩から距離を取る。

はっきりは見えないけれど確かに岩の上に誰かい、る…?

軽い調子の声と台詞に自分の状況に気付いて激しい水音を立て慌てて湯に潜った。


「だ、誰っ!?」


威嚇にお湯を思いっきり投げかけるが影は「おっと」と、おどけた様子でそれを避ける。


「落ち着きなって、どうせこれ夢なんだし」

「は?夢?」

「そ。おーい旦那ぁー!いつまで隠れてんのさー」


なるほど、夢だったのか。それならいつの間にか風呂に入ってた事も、湯気しか見えない周囲も、この奇妙な登場人物にも納得がいく、のか?


「いや、それでもあんたの存在は異質でしょ」

「異質っちゃ異質だけど…つかこの湯気邪魔!」


パチン!と軽快な音がした途端みるみるうちに湯気が消えていった。残ったのは私とお湯と自身を異質と認めたその存在。そいつは岩の上で長めの明るいオレンジの髪を掻き上げて、へらりと笑ってみせた。


「はじめましてーどうもー」

「ど、うも…」


じりじり後退しながら返答する。男は特に気にした様子もなく、岩の上に立ち上がる。びく、と身構えた私に先ほどとは違うふわりとした笑顔を見せ、そのままトン・と下り立った。

何処に?


お湯の、上に!


軽いパニックを起こしている私を気にも留めず、水面を普通に歩いてくる。歩く度に波紋がひらーり、ひらーりと広がっていく。

逃げる事も忘れて口を大きく開けながらその行方を見つめたままの私の手を取って、ぎゅうと握りしめた。


「愛子ちゃん、だよね?俺様も初めて会ったけど君の事はよく知ってるよ」

「は?え、は?」


なになになに、一体なにこの人。口はパクパクするだけで声なんかちっとも出やしない。ええい、役立たずの口め!

どうやら佐助というらしいその人。とりあえず何で水の上に立てるんですかと訊ねたら、夢だからと言われた。

なるほど、夢だからか。もう何でもありなのか、なんて殆どヤケになって遠くを見つめる私。佐助さんはマイペースに「風呂場はやっぱ暑いな」とぼやきながら長い髪を束ね上げていた。

なんだこの奇妙すぎる空間は。


「旦那!いい加減出てきなって!じゃないと愛子ちゃん逆上せちまうよ!」

「それは困る!」


唐突に叫んだ佐助さんにも驚いたが、さらにその隣に現れた影にも驚いた。

しゅた!とその人も佐助さんと同じく水面の上に片膝を立てた状態で現れた。本当何でもありか。


「御初に御目にかかる。某、幸村と申しまする」

「あ、どうも。愛子です」


どうもどうも、うだつの上がらないおっさんのような挨拶をする私とは違い、幸村さんは下げていた顔を一度上げて私と目を合わせた後、正すようにしてぴしりと膝を付けて深々と頭を下げた。水上での土下座なんて今後一切見る事は出来ないだろう。


「や、頭上げて下さい。何かいたたまれませんから」


だって私水の上になんて立てないし。同じ態勢を取ろうにもインザウォーターしちゃうし。しかし幸村さんは更に頭を下げて首を降る。あ、額がちょっとお湯に入ってる。


「しかし愛子殿…その、お姿が…」

「へ?」


はた、と気付いて視線を降下させる。

…あああああああ私マッパじゃねえかあああ!有り得ない!夢だろうがこれは有り得ない!やばいちょっと泣きそう!

もう一度湯に潜ろうとしたら、二発の軽快な指のはぜる音。一度目の音でぱっとお湯が消え、二度目の音で私は浴衣にくるまれていた。


「はい、これで二人共落ち着いて話せるでしょ」


やれやれと肩を竦めるオレンジの人。あ、佐助さんの事忘れてた。


「あ、りがとうございます?」

「いいえ、どういたしまして?」


よく分からないまま首を傾げながらお礼を言ったら、佐助さんもちょこんと首を傾げて微笑んだ。ちょっとなんだそれ。可愛いじゃないか。

しかし佐助さんが私の仕草を真似ているのが分かって慌てて姿勢を正す。うわあ、何か知らないけど恥ずかしい…!

にこにこと綺麗な笑顔を惜しげもなく晒してくれる佐助さんに、かっかと火照る頬を手の甲で撫でつける。

すると幸村さんがあからさまに不機嫌な顔で佐助さんの太ももを肘で思い切り突いた。がつりと鈍い音と共に「いってェ!」と悲痛な声が上がる。

つられた私も痛みに顔を引きつらせたら、幸村さんは少し慌てた様子で「大丈夫ですか?」と凛々しい眉を下げて心配してくれた。

原因はあなたですとも言えず、へらりと笑って返せばまるで小さい子どものようなあどけない顔で笑う。なんと言うかころころ表情の変わる人だなあ。


「今宵、何の報せもせず愛子殿の夢の中へ入ってしまい申し訳ございません」

「へ?あ、いや別に」


再び恭しく頭を下げる幸村さんにもう一度「頭を上げて下さい」と告げて手を降る。しかし彼の奇妙な物言いに動きを止めた。


「その謝罪、何か変じゃないですか?」


例えば裸を見てごめんなさいとかなら分かる。むしろそっちを謝って下さい。でも彼が謝ったのは私の夢に入った事、だと?

そんな言い方、まるで自在に夢に入ったり出来るみたいじゃないか。


「それは某が………、だからでございまする」

「え、なんて?」


聞き逃してしまった後半の部分をもう一度言ってもらえないだろうかという意味も込めて、耳に手を当てて幸村さんとの距離を詰める。


「ですから……っ」


真っ赤な顔を真っ直ぐ向けるが口はあうあうと意味の無い音を紡ぐだけ。頑張れ!と思わず拳を握ってしまいそうになりながら、やっと幸村さんの口から聞き取れる言葉が生まれた。


「某は夢魔にございます故…!」

「むま?」


ってなに?助けを求めて、隣で様子を見ていた佐助さんを見ればそれに気付いた佐助さんは知らないの?という顔をしていた。


「夢魔は夢魔だよ。あ、インキュバスって言えば分かるかな?」

「インキュ、バ、ス?」


聞いたことくらいあるでしょ?とまた可愛い仕草で(無意識なの?)首を傾げる彼に比べたら私はなんて滑稽なリアクションしかとれないんだろう。

インキュバスって確か寝ている女の人にいやらしい事する悪魔じゃなかったっけ…!?


「い!いやらしい事をするのではありませぬ!そのような気にさせてオルガズムを少しばかり頂戴するだけにございます!」

「心読まないで下さい!って言うかオルガズムって何!?」

「性的絶頂感」

「きゃああああああああ!信じられない!あり得ない!」

「佐助ぇええ!話をややこしくするな!」

「ややこしくなんかしてないでしょー。説明してんでしょー」


キャーキャーギャーギャー騒ぎ立てる私達に、佐助さんは疲れるなと呟いてため息をこぼす。


「あのね、俺達は愛子ちゃんに危害を加えるつもりはこれっぽっちもない。ただ少しだけ旦那に協力してもらいたいんだよ」

「協力…?幸村さんに…?」


パニックと恥ずかしさで涙すら浮かんできていた私を宥めるように優しい声色で佐助さんは続ける。


「そう、生きる為にね」


佐助さんの低く穏やかな声は私をとても落ち着かせた。ほ、と息をついた瞬間、もの凄い音を立てて勢いよく佐助さんが視界からフェードアウトした。

は!?と目を瞬かせて辺りをキョロキョロしたら、何故か幸村さんを上に乗せて二人でぶっ倒れていたので思い切り訝しんで見てしまったじゃないか。


「いってェ!ちょ、まじいてェんだけど旦那!早く退いて!」


しかし幸村さんから反応はなく、心なしかぐったりしている。


「あの…佐助さん、幸村さん様子おかしくないですか…」

「へ!?…あ、そうかー…」


ぐしゃ、と前髪を掻き上げて佐助さんは何度目か分からないため息をついた。


「ごめん。とりあえず手、貸してもらっていいかな」


…なんかこの人、すごく苦労してそうだなあ。





「一週間絶食!?」


信じられない台詞に思わず大声を出したら疲れきった顔でこっくり頷かれた。どうしてそんな事を…と真っ青な顔で未だ倒れたままの幸村さんに視線を向ける。呼吸もまばらで脂汗が滲み、本当に苦しそうだ。

張り付いた髪が邪魔そうだったので払おうと触れたらピリッと電気みたいなものが指先に走った。なんだろう今の。静電気?


「旦那は夢魔のくせに初心で女の子が苦手なんだ」

「…それってさっき言ってたオルガズム?ってやつが取れないって事ですか?」


難しい顔をして佐助さんは黙った。夢魔にとってオルガズムは主食のようなものらしい。それを一週間も断つなんて。


「馬鹿じゃないですか」

「そうなんだよ。馬鹿で不器用で堅すぎるんだよねー」


もーほんと俺様お手上げ、と両手を軽く上げる佐助さんだがどこかその表情は優しい。兄弟ではないんだろうけど幸村さんの兄貴分みたいな感じなのかな。

ぼろくそに言いながらも心配してるのが分かって自然と笑みが零れる。


「あ、何笑ってんの愛子ちゃん。もー俺様ほんと大変なんだからね」

「見てたら分かります」


あははと笑って、お疲れさまですと労れば、きゅと両手を包まれた。あ、あれ?なんか顔近い…?


「あー…やっぱいいね愛子ちゃん。俺様、愛子ちゃんに癒やしてほしーな」

「へ?え、あの」

「俺様とイイ夢見よっか」


ぐい、と肩を抱かれ一気に吐息がかかる距離まで縮まる。切れ長の瞳に熱が籠もっているのが分かって、そんな眼で見つめられた事のない私の頭の中は未知の体験過ぎてオーバーヒートしそうだ。

熱に浮かされ朦朧とした頭に佐助さんの言葉が耳から伝ってくる。でもその言葉を理解するよりも早く意識が…


「…っ佐助貴様、俺が目を離した隙になんたる…ッ!」


ガツンっ!


頭が縦から割れたんじゃなかろうかと思わせる音を立てて幸村さんの拳が佐助さんの脳天に落ちた。ぐっ、だか、ぐえっ、だかの苦しげに呻いて佐助さんは沈黙。


「きゃっ…」

「愛子殿!」


だらりと意識の無くなった体が私に覆い被さってきて、抵抗する間もなく押し倒されてしまった。意識の無い体というのは思いの他重く、さらに佐助さんの長身も合わさって胸辺りまで被さられては身動きが取れない。


「お、もい…っ!ゆ、きむらさっ」

「お待ち下され!今すぐお助けしまする!」


私の肩に右腕を回し抱き止め、左手で乱暴に佐助さんの肩を掴んで浮かすと、ごろりと床に放りやる。だ、大丈夫なのかなと些か心配にはなったが微かに呻いていたので大丈夫みたいだ。


色んな事に安堵の息をこぼすと、不意に回された右腕にぐいと引き寄せられすっぽりと幸村さんの腕の中に包まれた。


「ゆぁっ、幸村さん!?」


突然の事にばたばたと手を動かせば更に力が込められる。背中に回された右腕と腰に回された左腕から不快ではないじんじんとした疼きを感じた。


「…真、勝手な言い分ではございますが、愛子殿に某以外の男が触れるのは我慢ならぬのです」

「え、と、それはどういう」

「愛子殿っ、俺は…っ!」


ぎう、と逞しい両腕に力が入る。


「ひぇっ…!?」


一際強く抱き締められた瞬間、電流に似た何かが体中を恐ろしい強さで駆け抜けた。様々な回線がショートしたと思った。

火花の散る視界に映った幸村さんが必死に何かを叫んでいたがそれを聞き取る事は出来なかった。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -