我が学園で1番手間のかかる女子生徒の部屋をノックします。なかなか返事が返ってこないので、まだ寝ているのでしょう。


「結衣、入りますよ」


一応一声かけてから部屋に入ります。一応、彼女も女性ですしね。しかし扉を開けば女性とは思えないほどの部屋の汚さ。僕は一週間に一度、結衣の部屋をきれいにするために訪れます。幼なじみの彼女の元に。







「はじめくんの言うこと、ちゃんと聞くのよ」

「わかってるよー」

「迷惑かけちゃだめよ」

「なるべくー」

「はじめくん、こんなのだけどはじめくん大好きだから、面倒見てあげてくれるかしら?」

「んふっ、もちろんですよ」

「こんなのって何!もう!」


結衣が僕と一緒にこの学園に入学したのはもう三年くらい前になります。協調性に欠ける結衣が寮で暮らすことをとても心配していらした結衣の親御さんから何度もお願いをされました。幼なじみで、結衣のことはよくわかっているつもりでしたし、何より僕も結衣を放っておけませんでした。


「……はじめちゃん!」

「結衣…、また怒られたのですか?」


結衣は学園でも問題児でした。校則は守らない、私生活がだらしがない。先生方も僕が結衣と幼なじみであることを知って、結衣の世話係を任されてしまいました。僕もひまじゃないんですがね。結衣の部屋は僕の部屋と近い男子寮の角部屋になり、カギの管理も僕がすることになりました。こうして毎日の学校生活、そして毎週日曜日は結衣の部屋にいって生活のリズムを整えてやることが僕の日課となったのです。







「………」

「…んー…」


結衣は案の定すやすやと寝ていました。昨日も夜遅くまで起きていたのでしょう。埃っぽい室内の空気に眉をひそめながら、結衣のいるベットまでの道を作ります。教科書は本棚に、とあれほど言ったのにいっこうに直りません。窓を開けると、夏の空気と風が入ってきました。


「結衣」


結衣のセミダブルベットは、正直結衣にしては大きすぎます。現にちいさく丸まって寝ている結衣は、面積の半分も使っていません。僕はベットに腰をおろして、結衣の肩を揺すります。


「んー、…ね、む…」


全く結衣は起きようとしないので、仕方なく先に部屋の片付けをします。僕から見ていらないもの、いるものを袋に分けます。まだ捨てないのは、以前勝手に捨ててしまってたいそう拗ねたことがあるからです。僕にはガラクタに見えるものも、結衣にとっては違うようです。







「…はじめちゃん、おはよー」

「おはようございます。紅茶が入りましたよ」

「良いにおい〜」

「結衣!先に顔と手を洗いなさい」

「はいはい」

「ひとつ多いです」

「ごめんなさい」


結衣の使いやすいように物を整理し、結衣の朝食と僕の昼食を兼ねたパンケーキと紅茶を用意しました。今日の紅茶は結衣の親御さんが送って下さったクイーンメリー。僕はストレートで飲みますが、結衣は甘いミルクティーでしか飲めません。


「部屋がきれい」

「当たり前ですよ」

「画材で切れてるやつがあったから買いに行かなきゃ」

「リストアップしておきました」

「はじめちゃん!好き!」

「はいはい」

「はじめちゃんだって二回ゆうじゃん」

「僕は良いんです」


結衣はパンケーキにバターとジャムをたっぷり乗せて、しあわせそうに口に入れています。その様子に少し笑うと、結衣は首を傾げます。「口の端にジャムがついてますよ」と指摘すると、「とってとって」と甘えてきます。本当に、手間がかかる。


「ね、作品見た?」

「今廊下に展示されている作品ですか?」

「ちっがーう!アレ!」

「ああ、」


結衣が指差したものは、今度のコンクールに出す大きな油絵でした。


「今回のテーマは?」

「ええとね、愛情だよ」

「…そうですか」



きみとの甘さしかほしくない



結衣が持つ芸術性や創造性は同年代と比べて頭ひとつ、いやそれ以上に飛び抜けたものでした。読んだ文章の情景はまるで目の前の出来事のように"見る"ことが出来ますし、筆の操り方も色使いも普通と違っていました。絵だけでなくもちろん工作も、そして音楽も得意でした。


「結衣ちゃん、変なの」


結衣の独創的な発想は周囲を驚かせましたが、その常識にとらわれないやり方は時に周囲を遠ざけました。協調性に欠ける結衣にはあまり友達がいませんでした。さびしく悲しいと感じた時は、いつも暗色系の絵の具で絵を描いて、「はじめちゃんはじめちゃん」と泣いてすがってくるのでした。







「これはね、ママとパパにあげる絵なの」

「それは…良い親孝行ですね」


結衣はあまり泣かなくなりました。泣かない代わりに、夜更かしをするようになりました。取り憑かれたようにガリガリとデッサンを何枚も描いたり、何時間もパソコンで音楽を作りそれに合わせたPVを作ったりしていました。学園に来てから、結衣の創造は幅広いものになりました。喜ばしいことである反面、結衣がこわくなりました。


「たくさん迷惑かけちゃってるから」


結衣は大人になりました。考えることが増えた分、スランプに陥りやすくなりました。けれどもスランプの内に作られた作品も周囲からは評価されます。納得がいかない作品に高評価をつけられ、悩み迷いました。それでも作り続けました。


「結衣の具合は良くなりましたか?」

「はじめちゃんのお薬が効いたみたいだよ」


一度結衣が倒れた時、退学の話も出ました。聖ルドルフ学園を退学して、もっと美術を専門的に学べる中高に転入した方がいいのではないかと。本人もきっとそれを望んでいるだろうと、結衣の親御さんは言いました。けれど結衣は絶対に退学しようとしませんでした。親御さんが「はじめくんが勧めたら聞くかもしれないから」と頼まれ、結衣を説得したことがありました。「はじめちゃんの馬鹿!」そう言って学園に入って初めて結衣が泣いたあの日を、僕はまだ忘れられません。不眠症気味の結衣のために「薬を溶かしてありますから、飲んで下さい」と言ってあれからずっと甘いホットミルクを作り続けました。結衣は美味しそうに、本当は薬なんか入っていないことも知らずに、いつも安心したように寝るのです。







「はじめちゃん」


紅茶に映る自分をぼんやりと見つめていると、結衣がやけに真剣な顔をして僕の名前を呼びました。


「私ね、本当はこの絵、はじめちゃんに描こうかなとも考えたの」

「えっ」

「だってはじめちゃんがいなかったら、私とうの昔に死んでるよ」


結衣が幼なじみだとか、そういうものが僕にとって関係なくなったのはつい最近です。結衣に向ける感情が友情でなく紛れも無い愛情であると気付いた日、僕はちょっとした絶望がありました。僕は結衣が好きだから、きっとこのまま世話を焼いて、結衣もその好意に感謝しつつ快く受け取る。好意の裏にある自己満足と下心に気付かずに、ずっと。気付かれたくないから、ずっと。一蓮托生。そういうのって、終わりがない。


「それは、いけませんよ」

「…なにが?」


思えば勝手に口が開いていました。いけない、と思うのに止まりませんでした。


「このテーマは愛情です。僕に向けるものは、愛情とはまた別でしょう」


ずるい言い方をしてしまいました。いつも「はじめちゃん、好き」と言う結衣のことわかってて言ったのです。


「そうだよ」

「はじめちゃんに向ける感情は愛情なんかじゃないよ」


「はじめちゃんの馬鹿!」



結衣は突然立ち上がると、ベットの下に隠された三つの箱を取り出しました。一つの箱の中身を天井に向かって放り投げました。ぱらぱらと落下するのは千枚以上の下書き用のクラフト紙でした。二つ目の箱には同じように幾枚もの画用紙。三つ目は、今まで僕が結衣にプレゼントしたものでした。


「はじめちゃん」


クラフト紙にも画用紙にも、描かれていたのは僕に関連するものでした。僕自身の姿であったり、僕のお気に入りのティーポットやカップ、イギリスの田園風景。僕の好きなもの。


「はじめちゃんに対するのは愛情なんかじゃない」

「はじめちゃんのことを想って絵を描くと、いつもきれいな色じゃなくなるの」


「はじめちゃん」







はじめちゃんの側にずっといたい。でもはじめちゃんの周りにはいつも可愛い女の子も素敵なお友達もたくさんいる。私はそのひとりにはなれない。なりたくないし、私はそんな大層なものじゃない。


「好き」


はじめちゃんは優しいからずっと世話を焼いてくれるかもしれない。離れそうになってしまったら泣きわめこうか。きっと帰ってきてくれる。でもはじめちゃんにはしあわせになってほしい。出来れば一緒の、しあわせが良い。はじめちゃんと一蓮托生。ずっとずっと一緒。私はしあわせだけど、はじめちゃんにとっては違うかも。


「好きです」


はじめちゃんはいつも良いにおいがする。シャンプーもせっけんも薔薇も紅茶も、はじめちゃんを通して感じる香り。私のしょっぱい涙と汗と、画材のにおいを消してしまうくらい大好きなにおい。しあわせ。


「私も好き」