ヒーローは西風に乗って【冒頭/試読】

 受験票が無い。人生最大のピンチだった。
 血の気が引くとはこういう事かと思った。努めて冷静に考えようとするが、冷静になんかなれるわけがなかった。
「どこだ、どこにある」
 バスを降りて受付の列に並び、手元に受験票を用意しようとしたところで無いことに気付いた。
 家に忘れてきたのならまだ救いようがあるかもしれない。余裕をもって一時間も前に着いたから、今からタクシーを拾って家に帰ることも、家族に電話をして持ってきてもらうこともできるだろう。
 けれど俺は確かに受験票をリュックの中に入れたはずなのだ。昨晩も、今朝家を出るときだって何度も確認した。その時はあった。それなのに――
「どこにいったんだよッ!」
 リュックの中身を全部ぶちまけて探した。ポケットはもちろん、参考書やまとめノートの間やペンケースの中、入れるはずもない財布の中まで探した。
 続々と受付を済ませていく他の奴らから向けられる視線が痛い。でも恥ずかしいもなにもなかった。この高校に受かるために、俺はずっと勉強を頑張ってきたんだ。落ちる以前に受けることすらできないなんて絶対に嫌だ。
「君、受験票をどこかで落としたんじゃないか?」
 俺の様子を見かねて一緒に探してくれていた試験会場の職員が言う。
「そんなはずは」
 ない――と言い掛けて、ふとバスの中でリュックから参考書を出したことを思い出した。
 受験票は参考書と重ねてリュックの中に入れたんだった。
「もしかして」
 気付けば何も持たずに走り出していた。
 バスを降りてから、まだそれほど時間は経っていない。走って追い掛ければ追い付けないだろうか。
 いや無理だ。走りじゃ到底無理だ。
(せめて自転車があればどうにかなるか――?)
 腕時計を見る。
 試験が始まるまであと四十五分だった。

 ***

「ふあ〜あ。暇だなぁ」
 黒の革ツナギを着たその男は、ヘルメットを取って大きなあくびをする。道路脇に停めた大型バイクはエンジンをかけたままで降り、自販機の前に立った。
「なんでこうもコーヒーが高けぇのかなあ」
 ガコンと音を立てて落ちてきたコーヒーを取り、プルタブを立てる。飲めば熱い液体が喉を通って胃に到着するのが分かる。寒空の下で飲む缶コーヒーの美味いこと。
「――お願いします!」
「いや、そう言われても」
 何やら騒がしいと思って目を遣ると、道路向かいで中学生が大学生風の男に頭を下げていた。
「バスを追い掛けたいから自転車を貸してくれだって?」
「受験票を落としてしまったみたいなんです!」
「それ本当なの?」
「本当です、お願いします、必ず返しますから自転車を貸して下さい!」
「えー、どうしようかな」
「お願いしますッ!」
 たぶん嘘なんかじゃなくて本当の話なんだろうなぁ、と何度も頭を下げる中学生を見て思う。天気予報曰く今週一番の寒さだというのに、汗で髪の毛が顔に張り付いている。とは言え、走り去ったバスを自転車で追いかけるなんて、バカが考えることだ。いくら制限速度を守ってちんたら走るバスでも、素人のチャリより速いに決まっている。プロの脚でもあるまいし無理だとは思わないのか。
 缶コーヒーを飲み干しながら見ていると、ついにいぶか訝しげにしていた大学生が中学生を振り切って去って行ってしまった。
「……クソだな、アイツ」
 断るならさっさと断ってやれよ。変に希望持たすんじゃねぇ。
 大学生に中指を立てて唾を吐くと、缶をゴミ箱に突っ込んで愛車のエンジンをふかした。


(続く)


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