家に、灯りが点っていること。戸を引けば、声が漏れること。顔を覗かせれば、駆け寄る音が聞こえること。それが全て、自分が手に入れては不味い類いのものだと、知らなかったわけじゃない。だからと言って、望んで手にいれたわけでもない。偶然に、腕の中に転がり落ちてきただけであって。だけどまぁその身体を、腕の中から零れ落とすことも可能だったわけで。未だに、どうしてそうしなかったのか、いまでもそのつもりがないのか、よくわからない。
「お帰りなさい。」
ただ、志乃が言うこの一言に自分が弱いことはわかってる。弱いとはつまり好きだ、と言うことも。ちゃんとわかっていたつもりだった。
*****
「おじさま、ごはんは召し上がりますか。」 「うん、よろしく。」 「ちょっと待ってて下さいね。」
志乃は母親に似て、笑わなくても優しい面立ちをしている。初対面の人間から嫌われた試しがない。自分とは正反対の生まれつき特な顔だ。
「おじさま、手ぐらい洗われたらいかがです。また諸泉さんにご心配お掛けしますよ。」
甘い声でまともなことばかり言うのは、父親にそっくりだ。中々手厳しいところまで引き継いでいるらしい。二親は、それぞれの美点を引き継いで貰えてホクホクしていたことだろう。
「おじさま!それは明日のおかずです!摘まみ食い禁止!」
志乃の両親は昔から私の主治医だった。この顔を全く嫌がらない、職業貴賤を問わない殊勝な気の良い町医者だったが、人が良すぎたのかもしれない。一年前、強盗に押し入られて夫婦揃いの無惨な姿を娘に見つけられるまで、彼らと親しく付き合っていた。
引き取った、と言う気はない。彼女を養育しているつもりはさらさらなく、彼女は彼女で部下に呆れられるほど荒れ放題だった家を、人がまともに暮らす体に整え、日中は家事をしながら小間物屋で売り子をしていた。彼女は自活出来る程度に自立していたし大人だった。ただ志乃が誰かに嫁ぐときに、旅立つための家を作っておくこと。それが友人でもあった彼女の両親に対する義理立てなのかもしれないと思うことにしている。両親をきちんと送り出した志乃に、家に来るよう言ったのはそういう意味からだった。
「おかわり。」 「おじさま、三杯目ですよ。」 「だって美味しいんだもん。」 「はいはい。」
この家に、志乃が浸透していく様を、黙って見ていた。
*****
「え?」 「だから、お嫁に行く話なんだけどね。」 「え、私、お嫁に行くんですか?」 「そりゃそうでしょ、君って一応箱入り娘だったんだし、良いとこ見つけるから待ってなさいよ。」 「おじさま、私、ここにいちゃ駄目なんですか。」 「なーにー、こんなあばら家に里心付いたの?ダメダメ、雑渡のおじさんがあらゆる手段使って志乃に好い人見つけてあげるからね。」 「いえ、そう言うことじゃなくて、私、お嫁に行くならここにいたいと言うか、」 「ダメダメ絶対ダメダメ。志乃のお父さんみたいに良い人見つけるから、良い子に待ってなさい。」
志乃が家に来てから一年が過ぎた。気立ても良く、誰にでも親切で健気な娘。人望を集めていた医者の一人娘。界隈では嫁として引き手数多だった。直接求婚に現れる勇気ある若者もいたけど、志乃はいつだってごめんなさい、と謝っていた。どんなときも、毅然とした態度を崩さずに。
「志乃は、理想が高いのかなー。この前も角の呉服屋の息子を袖にしたんでしょ。」 「私には、まだ早いと思うのです。」 「何言ってんの、次の春には十六でしょう?今が一番だね。」 「そんなこと、」 「あのね、志乃。」 「…はい、おじさま。」 「また長い戦が始まるからさー、おじさんは自分がピンピンしてる間に志乃がちゃーんと嫁ぐ姿を見ておきたいんだよね。わかる?」 「それなら志乃は、戦から無事に戻られるおじさまをいつもお出迎えしたいんです。」 「そんなの、」
奥さんのすることじゃないか。
「そんなの、許しません。ダメダメ。志乃は顔良し頭良し家良しの男に嫁ぐ。これ決まりだから。」
思わず言いかけた言葉を飲み込んだ。志乃が、私に言わせようとした言葉を、飲み込んだ。一瞬輝いた志乃の表情が返したように凍りついた。私には、志乃がどうすれば喜ぶのか悲しむのか手にとるようにわかってた。わかることが、相応に辛かった。
「おじさまは、私がどなたかに嫁いだ方がいいの?」 「うん。」 「どうして?」 「だって、おじさん志乃の両親に約束したんだ。絶対に幸せにするからって。」 「おじさまが幸せにしてください。おじさまと一緒にいるのが志乃の幸せです。」 「そりゃ小さいときから知ってるんだ、安心する。でも大丈夫、志乃を幸せにしてくれる優しい相手を見つけるからね。」
答えになっていなくても、志乃がいうことに頷くわけにいかなかった。それが本当のことなら尚更。二人が同じことを思うなら尚更。
「おじさんの言うこと、聞き入れてくれるよね?」
私に恩を感じている志乃が、最後まで私に反論できるはずがなかった。だからこそ、私が有無を言わせない問いをしたことも、なかった。今までは。
「はい、おじさま。」 「うん、いいこ。」
頭を撫でた時に、肩が震えていた。泣きそうな志乃の顔を、見ないようにして逃げた。
*****
似合わないものが、家に続々と運び入れられていた。
「いやー愛されてるねぇ。」 「おじさま、お帰りなさい。」
志乃の嫁ぎ先は、町でも有名な貿易商だった。この家の息子は志乃の幼なじみでもあり、親を亡くした志乃の元にも、何度となく足を運んでいた。相手先はもちろん彼女を気に入っていて、私が用意するつもりだった婚礼衣裳も、何もかも全て揃えてくれた。
「もうすぐだねぇ。」 「衣裳、どうですか?」
立て掛けられた真っ白な衣裳の後ろに回って、顔だけ覗かせた志乃が笑った。笑ったように見えたのは、私の思い込みなのかもしれないけれど。
「綺麗なんじゃない。」 「ありがとう、おじさま。」
あぁほんとに、綺麗。その衣裳を着て、志乃はこの家から嫁いでく。私には出来ない普通の暮らしを、毎日それが自然だと思えるほど味あわせて貰える。両親がいた頃のように普通の毎日を、過ごせる。
「幸せになりなさいね。」
小さく頷いた志乃は頑張って、頑張って笑ってくれた。
その顔が、子どもみたいな満面の笑顔より何より、綺麗だった。泣きそうな顔が綺麗って、ほんとに得してる子なんだから。
*****
真っ白な花嫁衣裳を身に纏った志乃が、正座して三つ指ついて、私に頭を下げていた。これじゃほんとに、父親みたいだ。
「今まで、お世話になりました。」 「こちらこそ。志乃がいなくなったら、家が荒廃するだろうね。」 「お台所のお醤油とかお酒とか、何がどこにあるかとか、紙に書いてありますから。」 「ありがとね。志乃はほんとに、良いお嫁さんになりそうだなぁ。」 「あの…繕い物とか、何か困ったことがあったら、私を呼んでくださいね。」 「それはダメダメ。おじさんのことはいいから、優しい旦那さんを大切にしなさい。」
真っ赤に塗られた小さな唇が、何か言いかけて閉じられた。そう、それでいいんだよ。何も言わずにこの家を出て行くんだよ。
「志乃は、この家からお嫁に行けて、嬉しいです。」
そう言って、志乃は私の元から嫁いで行った。誰より綺麗な姿だと思った。私が幸せにしてあげたいと、その頼りない背を見る度に思いもした。それでも、私は見守り送り出すことを選んだ。選ぶしかないと、思い込んだ。だってそうだろう?どうしたら私と居て毎日笑っていられる?
「おじさま、ありがとう。」
迎えにきた先方に志乃を頼んで、見送った。ただ、「幸せになります」と、最後まで志乃の口から聞くことはなかった。
*****
「ただいまー。」
自分がこんなに馬鹿だとは思わなかった。それでも灯りも声も、志乃の作るごはんがない毎日にも、慣れることが出来なかった。
志乃が、いつも花を飾っていた一輪挿しに、久しぶりに、摘んできた花を入れた。
この家ともお別れだ。私も旅立つことに決めた。志乃のいない家が、こんなに寂しいとは思わなかった。予想くらい出来ただろうに。
届いた文によれば、明日、志乃が夫婦揃いで挨拶に来ると言う。町でもお似合いだと評判の新婚さんなんて、ほんとに微笑ましいよね。でも残念だけど、志乃の隣にいる男とまともに会話する自信がない。
結局そういうことだったわけだ。私も、馬鹿だなぁ。あーあ、素直じゃないって義理堅いって、時々馬鹿みたいだなぁ。友人だった志乃の親には悪いけど、拐って奥さんにしちゃうんだったなぁ。お似合いだなんて言われなくても、志乃に毎日心配かけても。私のものにしちゃうんだったなぁ。馬鹿だなぁ。
「ね、お前もそう思う?」
小さく揺れる鈴蘭が、頼りない志乃に被って見えた。小さく揺れるその花弁が、まるで志乃みたいに頷いていた。
『おじさま、』
幸せになれそうだったのにね。
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