また浮かんだ。ぼんやり浮かんだ。どうでもいいことばかりが、僕の頭の中には浮かび上がってくる。例えば偽ることは人間が唯一保持している特技だということ。そして真実が嘘と同じに汚いということ。
「結城」 「何?」
血の臭いがした。行為後に漂う独特のすえた臭いも周囲を取り巻いていた。ただ少なくとも、僕の体は冷え切っていた。隣で横たわる彼女の顔色と同じように。
「うーん、」 「夢前、」 「平然としているね随分。」 「じゃあ、どんな態度ならお気に召したの?」
僕と結城はお互いの合意の元に、お互いの体を他人に初めて渡した。来月、彼女は授業の一環で見知らぬ男の相手となる。自分の能力を底上げするための至極真っ当な提案であり、僕はそれを迷うこともなく引き受けた。女性と寝ることに興味を覚えないはずはなく、結城は見た目にも僕の好きな体つきをしていたのだから、お互いに納得しての行動だった。
「ね、よかったの?」 「もうしちゃったのにそれ聞く?」
困ったように微笑む彼女が、僕の頬をつねる。伸びてきた腕の白さが、暗闇に慣れたはずの目にも眩しく見えた。
「夢じゃないでしょう?」 「現実だね。」 「後悔した?」 「全く。」 「それはよかった。」
女性の体が柔らかいことを、僕は知っていた。授業で偶然組んだ相手が怪我をした時に、僕は足を挫いた彼女を背負って山を降りたことがある。体型の違い、肉付きの良さ、円を思わせるような丸み、そのときに事実として残った感触は酷く生々しかった。けれど、直に触れたはずの結城の肌はまるで陶器のようだった。僕を受け入れたはずの彼女の体は、無機質で温かみがなく、それなのに一度で終わらせるには惜しいと思うような中毒性を持っていた。この違和感は何だろう。
「夢前が気に病んだらどうしようかなって思ってた。心配だったのはそれだけ。」 「まさか。今日だけじゃ惜しいなって思ったくらい。」 「じゃあまたする?」 「間違いなく、誘われたら断れない。」 「顔に似合わない発言してるね。」 「顔に似合わず男っぽいんだよね。」 「それは実感したかも。」 「それは誉め言葉かも。」
僕を見ている彼女の優雅な顔、それを支える白くて細い、鎖骨が綺麗に浮き出る首元。僕が一番好きな結城の身体的部位。いつも視線を這わせていたそこに、真っ先に咬みついたことを覚えている。彼女に目的があったように、僕の中にも気づかれてはいないけれど目的があった。
「どうして僕だったの?」
身体を横たえたままの彼女の頭の脇に両手をついて、上から覆ってしまう。布団に散らばる長い長い髪が、扇のようにかたどっていた。この場で髪を一房掬い上げ、口づけを落とせば雰囲気も変わるんだろうか。
「体だけなら、大丈夫だろうと思って。」
形の良い唇が、しっかりと言葉を紡いだ。今度はまっすぐに伸ばされた手が、僕の両頬を挟んだ。彼女の今の表情を僕はよく知っている。これは、憐憫同情微かな安堵、そして同類に対する冷やかな対応。
「考えたの。大切な友人に対して、自分の中だけで完結された裏切りを実行するには、どうすればいいのか。」 「大切な友人を裏切るの?」 「夢前も知っているように、大切で大好きな相手であっても、その全てを叶えてあげようと思うことは難しいのよ。慈善事業なんて他人に対して行えるべきものじゃないでしょう。あれは見返りを期待する自分への訓戒行為だと思うもの。」 「僕には、わからないかな。」 「あら残念。同じ考えを持っていたから相手になってくれたのかと思った。」 「僕はね、大切で大好きで全てを叶えてあげた相手を裏切るのが好きなんだよ。」
僕は何度も嘘を吐く。僕の為に嘘を吐く。だから時々、自分の本心がどこにあるのかどこに向かっていくのかわからなくなるときがある。
「裏切っちゃったね。」 「体だけね。」
結城の恋人は僕の友達、僕の恋人は結城の友達。目の前に陽の下で朗らかに笑いかけてくれる結城とは違う顔を思い出す。近づく結城の顔。鼻先でくすりと笑うその表情を、僕は好きだと思う。あの強すぎる笑顔よりもずっとずっと好ましく思う。
「きっとまた、裏切っちゃうね。」 「きっとじゃなくね。」
綺麗なままじゃきっと、見えないものがあるから。僕は君に触れようと思ったのかもしれない。飾りもなく言うならば、汚してしまおうと思いついたのかもしれない。だけど僕が言うまでもなく、結城は汚れきっていた。僕と同じように自分から泥にまみれたように。自分自身を偽り続けることが、なによりも自分を貶めることを知っていたのに。
「最初から、裏切っていたもの。」 「奇遇だね、僕もだよ。」
僕は、一番想う相手の側にいることを選べなかった。想いが近づくよりも早く離れることを恐れたために、最初から遠ざかることを選んだ。幸か不幸か、お互い同じように考えていたために、“僕たち”は自分たちに都合のいい相手をみつくろった。
「ね、夢前。ここ噛んだでしょ。」 「ばれた?」 「微妙に隠れなさそうなんだけど?」
それは一瞬よぎった浅はかな独占欲だった。冷静に装う僕を馬鹿にするかのように、不意を襲った欲望だったと、思う。本当なら臆病でなかったのなら意地をはらなければ何より素直になれたのなら。結城は、僕のものだったんだろう。
「だめ?」 「そんなはず、ないよ。」
好きだともう一度言える場面に立ち返れるなら、僕は今度こそ伝えられるだろうか。いや、そうはならないだろう。お互いに気付かない振りをしたまま、このまま。時折こうやって本能に流されては終わってしまうんだろう。ただその行為自体が誰かを振り回そうと傷つけようと、止めることなんてできないんだろう。
あの一言を口にすることを許されない僕たちは、益々体を通して伝えあうしかないんだろうか。体にしか触れることができないなら、君に伝えられないことばかりが増えるのなら、言葉なんか覚えるんじゃなかった。
君に触れるたびに堕ちていくのなら。よろしい、僕は地獄へ行こう。
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