いつも私は、あの人の後ろ姿を探してしまう。
授業の合間に見上げる教室、級友と談笑しながら過ぎてしまう廊下、たまに見る馬屋での姿。一方的に見かけるばかりで、正面から見ることは数えるばかり。もし声をかければ、少しだけ意地悪そうに、それでも綺麗な笑顔を向けてくれると知っているのに。
すらりと伸びた背筋、色素の薄い穏やかな髪色。一心に注がれている手元には、いつも違う手道具。作法室で窺うように覗き見る、真剣な顔が好きだった。きっとそれすら気づかれていたに違いないのに。
「志乃。」 「御用ですか、浦風先輩。」 「その花を生けたら、兵太夫のこと探しに行ってくれる?」 「え?」 「志乃が一番、兵太夫を見つけるのは上手いだろう?」
浦風先輩は、詮索するようなことは決してしないのに、いつの間にか全ての情報を手の内に収めている方だ。穏やかに微笑みながら、何もかも思い通りに出来る力があるのに、後輩には無理強いなんて絶対に試さない。恐らく、出来るのにあえてしない、その静かさが何よりも効力を発揮すると知っているのだ。
綾部先輩の元で何年も後輩の立場を経験すれば、それが修練に繋がったのかもしれないけれど。何が言いたいのかと言うと、今年の委員長はつまりとても、“らしい”と言うことだ。
「頬が赤いぞ。」
部屋の奥で、学園長室に飾る予定の花瓶を磨いているのは黒門先輩。一つ上の先輩は、優秀をわかりやすく絵に描いた用な方だけど、多分私には甘い。
「簡単に気取られるようじゃ、志乃も甘いな。」 「気をつけます。」 「まぁ想い人相手に頬を染めなくなったら、それはそれでつまらないけど。」 「先輩も、恋人相手には態度が変わるんですか?」
黒門先輩には同い年のくのたまに恋人がいる。二人が揃っている姿は滅多に見ないけれど、仲が良いのはどちらの教室にも有名だ。
「伝七も顔が真っ赤だな。」 「僕のことはほっといて下さい!」
浦風先輩がくすりと笑って、黒門先輩も首をすくませながら苦笑いを溢した。
入ったばかりの一年生二人は、植物図鑑を見ながら花と名前を一致させることに夢中で私たちの会話には入ってこない。ぱっとあがった顔に微笑めば、可愛らしい笑顔が返ってくる。小さな背中を丸くして並んでいると、兎が丸まっているようだ。ああ今日も、作法委員会はなんて平和。
あの人のいない委員会は、小さな私の心臓が煩く鳴ることもない。平和だけれど何かに欠けるのは、そのせいだろうか。
最後の花をさし終えて、ようやく立ち上がる。
「迎えに行ってきますね。」 「よろしく頼むね。」
優しく私を追い出した浦風先輩や黒門先輩は、公式に味方についてくれている。実際は恋愛事に味方も運も関係ないと思うけれど、あの方たちの協力は色んな意味で助けになる。もちろん、応えるためには目に見える成果をあげたいところだ。
先輩が好きなのは、長屋の縁側、教室の窓際、そして天気がいいと裏庭の樫の下。けれど順々に回ったのに、今日はどこにも見えなかった。それでも、例え先輩がお気に入りの場所にいなくても、私には見つけられる自信がある。傲慢でも思い違いだと言われてもいい。でも、先輩が私を呼んでいる気がするのだ。私が先輩をいつも呼んでいるように。
廊下に西陽が射し込んで、擦れた木目に小さく反射していた。私の好きな淡い茶色。そんなことを思い作法室へと戻る道すがら、放課後は人気の無い教室に私の好きな声が聞こえた。眩しさと共に横目で中を捉えた。
「笹山先輩、こちらにいらしたんですね。」 「遅いよ、志乃。」 「いつもの、場所に…?」
違和感を感じた。廊下から死角の位置に、別の誰かがいたせいだろうか。笹山先輩よりも年上の先輩。私とは違う、二歳違うだけで、女性と呼ぶに相応しくなってしまうその人が、綺麗に口角を上げていた。
「可愛らしい後輩ね。作法委員会は将来有望な子ばかり。」 「そんなことないですよ。」
その場を去ればいいのに、子供じみた嫉妬と離れた瞬間に起こるやり取りが許せなくて、立ち尽くしてしまった。こういう態度こそ、何にも増して馬鹿みたいに映るのに。
「ね、浦風先輩に伝えてくれない?笹山くんはお休みしますって。」 「え…?」
そんな私を見透かした様に、作られた笑顔が向けられた。その目が伝える本当の感情を私は知っている。
邪魔。
目の前の綺麗な女の人が伝えたいのはこれだけだ。研ぎ澄まされた負の感情を受けるのは、まだ慣れない。
その時、単純に言うならば私の世界から突然音が消えた。
直ぐ後ろで、笹山先輩が私の耳を塞いでしまったのだ。振り向くことは出来ないけれど、先輩のすることだから私は安心して任せればいい。すると右耳に、小さく声が響いた。
「志乃は絶対に聞いちゃ、ダメだからね。」
小さく頷くと、また同じように塞がれてしまう。そしてこの何もない教室が私には何よりも心地良い空間に変わってしまう。でも同時に、目の前の綺麗なはずの女の人は、顔を崩していく。歪んでいく様が余計に汚く見えるなら、私は綺麗になれなくてもいい、と思ってしまった。
「はい、おーしまい。じゃあ作法室に行こうか。」 「え、と…」
困惑する私を他所に、手をさっと取って教室を出ようとする笹山先輩。思わず私が教室に残された相手を振り返ってしまう。その時見たのは、無表情にこちらを見ている、能面が貼り付いた顔だった。
「言い忘れてました。」
いつも通りの表向きの笑顔を振り撒いて、笹山先輩が言った言葉に相手はわかりやすく警戒した。
「志乃は将来有望株なんじゃなくて、僕が見つけた時から綺麗なんですよ。誰よりも。」 「な…」 「あんたみたいに醜くならないよう、僕がしっかり見守りますからご心配なく!」
目を丸くしたまま、引っ張られるように作法室に向かう。意気揚々と出たにも関わらず、先輩の背中は、少しだけ苛々しているみたいだ。
「志乃が悪いんだ。」 「やっぱりお邪魔でしたか?」 「馬鹿!もっと早く迎えに来てくれたら、あんな女に捕まらなかったのに。」 「え、と、ごめんなさい?」 「取り敢えず謝れば許されるって思ってない?まぁ許すけど。」 「ごめんなさい。」 「志乃も生意気になったね…でも、まぁ良くも悪くも半々かな。」 「何がですか?」 「志乃の綺麗さが実証されたことは、大収穫。わかってたけどさー。」
そう言った瞬間、作法室の引き戸が勢いよく開いた。待ちかねていたように、黒門先輩が仁王立ちしている。浦風先輩は奥で姿勢もよく本を捲っている。それを尻目に私は揺れながら隅に落ち着く。取り敢えず混乱したら体育座り。
「遅いぞ兵太夫。」 「きゃんきゃん喚き散らす犬に捕まってたの。もっと早く志乃を寄越してよ。」 「探してもらうのが好きなのは兵太夫だろう?」 「藤内先輩は知っててそうなんだからなぁ。」 「…で?隅で放心している志乃に、お前何やらかしたの?」 「うーん?実験結果の報告かな?」 「嘘つけ…」 「兵太夫、実験したなら、後始末までしっかりするように。」 「委員長命令ですか?」 「可愛い妹の心配くらいさせてくれよ。」 「僕も藤内先輩も、志乃をみすみす悪魔に渡すのを黙ってるんだぞ?」 「なにそれ!酷い言い様じゃん。」 「「いや、真実だろ。」」
遠くの方で先輩たちが賑やかに話し込んでいる。でも私の頭は先輩に耳を塞がれて以来、靄がかかったままみたいだ。さっき先輩は何ていってくれたんだろう?
いつの間にか側に一年生が座り込んでいて、余った花を手に持ってはにこにこしている。
「志乃先輩に!」 「志乃先輩に!」
綺麗に揃った言葉と共に、私の耳元に花がさされる。
「先輩可愛い!」 「先輩綺麗!」
呆然としたまま、それでも二人に微笑めば、益々きゃーきゃーとはしゃぎまわる。その姿はとても男の子には見えない、とは言わないでおこう。
「こらー、僕の志乃に何してんのさ。」 「志乃先輩はみんなのものですよ!」 「そうです、カラクリで脅しても譲りませんよ!」 「生意気言うのはこの口なの?」 「「いひゃいれす!」」
そのまま笹山先輩は私の隣に座っていた二人を、ぽいっと一気に担いで黒門先輩に渡すと、片膝だけついて、私の左手を取った。
「今から志乃は僕のもの!はい、異論は?」 「ない、です。」 「大変よくできました!」
そう言うと、先輩は愉快そうににっこりと笑う。子供みたいに無邪気に。わかった、これがきっと違和感のない先輩のいつもの笑顔。いつも後ろ姿ばかり追っている私が、見たかった笑顔。そして多分、私にはいつも向けてくれる顔。
「それよりさぁ。一年どもが花を咲かしていい相手じゃないんだけど!」 「でも二人がせっかく…」 「…癪だけどそのままでいい。僕は違うとこにつけるから。」 「つけるんですか?」 「うん!つけるの。咲かせるの。」 「お花、楽しみにしてますね!」 「期待してくれていいよ。」
小首を傾げると、笹山先輩が猫みたいに笑った。何か企んだ様な顔も、私は好きなのだけど。その企みが私に向かない限りは、私も笑っていられるのだけれど。
「兵太夫、危うく昨日は規制かけるところだったんだけど。」 「他愛ない、花の話をしていただけですよ?」 「お前なぁ…あぁ志乃…」 「大丈夫。今日明日中の話でもあるまいし!」 「こんにちは先輩方!実習で街にお出かけなんです。」 「志乃、新しい着物も似合うね。」 「うん、可愛いよ。気をつけてな。」 「浦風先輩、黒門先輩ありがとうございます。行ってきますね。」
笑顔で出かけていく志乃を作法室から見送りながら、三人は手を振っていた。新しい着物を纏った志乃は、兵太夫の妖しい視線にも全く気づかずに出掛けてしまう。
「やっぱり、我慢するのやめようかな。」 「言うと思った。」 「…明日は委員会休みにしようか。」 「それは藤内先輩、甘やかしすぎですよ!おい兵太夫、自重…」 「だって、ようやく志乃が僕のものになったんだもん!」 「もん、て年かよ…」 「あ!今度の地下に増設する部屋は…」 「なんだよ?」 「二人の愛の巣にしようかな。」 「「自重!」」
その後、首元を包帯などで隠したまま現れる志乃を見て、一年生二人は無邪気に心配し、上級生二人は予想していたものの目を覆い、兵太夫だけは鼻歌混じりにカラクリの設計に励んでいた、とか。
*だから何かが違うんだ下級生第二弾!!←何その企画…は兵太夫でした。ちなみに兵太夫は四年生設定です。本当は彼女の耳を塞いでいるときの罵詈雑言マシンガントークまで書きたかったな…兵太夫、もう少し研究します。
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