そういえば随分前に、空気が乾いているのに痛さはなくて、日差しが強いのに風がひんやりしている気持ちのいい日があった。それがいつだったのか、記憶をたどっても上手く最後まではいきつかない。ただ、その思いだせない焦燥感を少しだけ感じさせられるたびに、思い知らされることがある。望んでも手に入らないこと、ただ待つしかないものがあることを。
だから、その時が来るのならば嬉しい。その思いだせない何かを手に入れた時がくるなら。
名前を知りたいと思うのはどういう時だろう。名前がわかった途端に、その相手はこちらの意識の中で一定の地位を占めてしまう。それは誰かを好きになることにも似ている。でも、その場合は知らないから知りたい、のではなく知っているのに知らない、だから知りたい、だろうか。
(古典の授業の時にもならったなぁ。女の人は簡単に名前を教えてはいけないんだっけ。)
突然こんな脈絡もないことを思いつくなんて、やっぱり疲れているんだろうか。さすがに今日はコンクールの予選だったから。会場を出て、人込みを縫って、駅構内で順番待ちして、席に座れてようやく人心地ついた気分。不規則に揺れる振動が眠気を誘うけれど、降りる駅は残念ながら終点ではないので、寝るに寝れない。
そんな半ば拷問状態にいるというのに、隣の席に座っている男の子は座った瞬間に眠りに落ちたんじゃないか、という位あっさり睡魔に負けてしまったらしく、気落ちよさそうに寝こけている。正直羨ましいけど、ここは我慢。でも校章を見る分に同じ学校の生徒らしいので余計に腹が立つ。
がたんっととん
座っていてよかったと思うくらい、大きく横揺れしたかと思うと、突然肩に激しく違和感を抱いた。いや、確かな重みも感じた。
(ちょっと…それはないでしょ。)
隣に座った男の子が、私の肩を枕にし始めた。ここで押し返すとか出来たら世間の荒波にも耐えていけそうなのに、私には実行に移す気力がない。もし反動で起きて不機嫌になられたら怖いし。それにしてもさっきから地毛なのか染めているのか、色素の薄い柔らかい髪の毛が首にあたってくすぐったい。
(睫毛、長いなぁ…)
横斜め下に見える表情は気持ちよさそうで、閉じられている目を縁取る睫毛は私よりも長い。これでマスカラつけてないんだからうんざりだ。最近の男の子は顔立ちが綺麗すぎるんじゃないかな。肌も白いし、なんか本格的に腹立たしくなってきた。
(何年生だろう?)
残念ながら、学年を示すはずのタイを彼はしていない。名前も知らない、正面からじゃないからきちんと顔もわからない、匿名希望の誰かに対していちいち怒るのも馬鹿みたいだから、大人しく枕になってよう。きっと部活の後か何かで彼も疲れてるんだ。考えてみれば同士みたいなものだし。
そして揺られること数十分、私が降りる駅の一つ前の駅に停車し、その名前がアナウンスされたかと思うと、スースーと気持ちよさそうに眠りこけていた某くんがパッと肩から頭を離した。
(ようやく起きた…にしては寝ぼけてる?)
ブレザーの内ポケットから携帯を取り出して時間を確認し、表示される駅名を見て何回か瞬きをしたかと思うと、慌ててスポーツバックを肩に背負い、飛び出して行った。あまりの素早さにこちらがぽかーんとなってしまった。
(何か一言、あってもいいのになー。しかも顔拝めなかったし。)
お礼の言葉が欲しかったわけではないにせよ、少し損した気分で顔をあげたら、さっきの彼がガラス越しに両手を合わせて、頭を下げていた。そしてゆっくり頭を上げたかと思うと、口パクで何かを告げようとしていた。
(あ、り、が…ありがとう?)
苦笑いをしながら、ありがとう、ごめん、と何回か繰り返し、そのまま手を振って私だけが乗った電車を見送っていた。
(なんだ、ちゃんとお礼言えるんだ。)
思わぬ彼の行動に胸のつかえがすとんと取れてしまった私は、ふと隣の席に目をやってから、あるものを見つけた。
「よく一人で来たね。」 「馬鹿にしてる?」 「だってここ、男クラだよ?扉開けるの緊張しなかった?」 「廊下で黒木くん捕まえたから。」
翌日、学校に着いてから私の取った行動は、周囲の友人を凍りつかせるものだった。そもそも私の通う学校は、男女共学の癖にやたらと男子の数が多くて、クラス分けの際にどうしても男子クラスが出来上がってしまう。それはしょうがないのだけど、この男子クラスが女子にとってはかなりの関門となっているのだ。想像がつくとは思うけれど、女子がいないということはそれだけ魔の巣窟と化しており、扉を開けた先に半裸の男子がいるのは当たり前、あり得ない方向からエロ本が飛んできても文句は言えない、誰かを呼び出そうものなら冷やかしと罵声のオンパレード…などなど、つまり女子生徒が一人で訪ねることは、よほどのことがないかぎりしないわけだ。
「あー、庄左か…委員会一緒?」 「そ。本題に入っていいかな。これ、忘れたでしょう?」 「あ!!」
私が持ってきたものを見止めると、わかりやすく彼の目が輝いた。
「俺のシューズ!!試合会場に忘れたかと思ってた。」 「慌てて降りたみたいだから。確かに届けたからね。」 「え、ちょっと待って。」
役割を終えた私は、早々にこの場から退場したかった。六組と言ったら他の学年にもその評判が届くくらい、凄まじい男クラなのだ。成績は毎回先頭切って最下位、クラスから発散される空気は隣の図書室を汚染気味、担任の土井先生は胃薬が手放せずに机の引き出しにはその手の薬が所狭しと準備されている、クラス内では様々な生物が飼育されており、迂闊に手を出すと飼い主の逆鱗に触れる、なぜか木刀と竹刀を生徒が標準装備、それなのに体育祭は一年の癖に余裕で優勝、逆ミスコンもぶっちぎりで投票数一位。
(早々に引き揚げたいのよね。)
それなのにニコニコと怪しいまでに笑顔を張り付けた彼は、なんだか帰してくれそうにない。
「なんで俺だってわかったの?」 「黒門くんに聞いた。バレーシューズだったから。」 「伝七に?ふーん、じゃあそのままあいつに任せればよかったじゃん。なんでこーんな男クラにまで来ていただけたわけ?」 「寝顔が綺麗だったから、正面からみたらどんなに整ってるのかなって思っただけだよ。」
それまで余裕綽綽の笑顔で対応していた相手が、一気に無表情になった。無表情と言うか顔が真っ青になって視線が泳いでいる。
「やっぱりミスコンで優勝している人は違うんだね。女の子じゃないのがもったいないくらい。」
固まったままの彼に対して、ひそひそと見守っていた六組のテンションはいきなり上がったらしく、あちこちから笑い声が響き、あの品行方正な黒木くんまで大爆笑している。陸上部で有名な猪名寺くんと夢前くんはお腹を抱えて笑いを抑えようとしているみたいだし、私のことなんて視界に入ってません、というオーラ満開で素振りをしていた皆本くんは、竹刀を足に落として悶絶している。
「じゃあ渡したからね。」
全く動かない目の前の相手に一応、告げてから六組を後にしようとすると、突然手首を掴まれた。
「お礼、させてもらえないかな?」
ぎこちないけれど、さっきの仮面みたいな笑顔よりもずっと自然な表情で、笹山くんははっきりそう告げた。
「お互いに今日は部活が休みでよかったね。」 「基本水曜日は休みだからな、うちの学校は。」 「忘れ物届けにいっただけなのに、奢ってもらっちゃっていいの?」 「いいのっていうか、まぁ気がおさまらないっていうか。」 「そういうもの?」 「そういうもんなんじゃない?」
私の前には割と一人で食べるには大きすぎるくらいのパフェ、笹山くんの前には私が飲んだこともないコーヒーが置かれていた。口では遠慮するようなことを言っているものの、ちゃっかり枕代はふんだくるつもりでいた。
「それ美味しい?」 「ありえないくらい。」 「…あそ。」 「食べる?美味しいけど、少し量は多いかもしれないから。はい、スプーンどうぞ。」 「……どうも。」
渋々といったようすでアイスの塊に挑戦し始めた笹山くんは、やっぱりこういう可愛いものもよく似合う。でも目の前でちゃんとみると、確かに綺麗ではあるけれどかっこいいから、女装して優勝しても男の子なんだなぁ。
「結城は、管弦だよな。」 「あれ?私言ったっけ。」 「…庄左から聞いた。」 「うん、管弦楽でヴァイオリン弾いてるの。小さいころから習ってて、個人でもレッスンしてもらってるんだ。笹山くんは、部活でのポジションは何やってるの?」 「セッター。」 「司令塔?一年生なのにすごいね。」 「試合前に毎回レギュラー争いするから。」 「そっか、やっぱり運動部とはそういうところが違うよね。」 「別に、運動も音楽でも勝負の世界は同じじゃん。」 「そういうこと言ってくれる人の方が珍しいよ。」 「手。」 「手?」 「すごい練習してんだなって、見ればわかる。」 「…そういうもの?」 「そういうもん。」
優しいのかぶっきらぼうなのか、むしろ意地悪なのかよくわからない笹山くんと、会えば話すようになったのはそれ以来。さすがに男クラまで訪ねて行こうとは思わないけれど、購買で会ったり、学食で隣になったり、偶然帰りが一緒になったときは一緒に帰ることもあった。なにより、笹山くんが部活の休憩で、体育館の外にある水飲み場で涼んでいる時に、ベランダで練習をしている私に手を振ってくれるようになったので、なんとなく振り返すのが毎日の日課になった。
そうやって勝手に楽しみにしていたことが突然終わったのは、秋が終わり冬に入りかけた頃だった。
寒くなっても、私はマフラーを巻いてベランダでヴァイオリンを弾き続けていた。友達も心配するし、手には決して良くないことだとわかっていたから自分でも止めた方がいいとは思っていたものの、日課を楽しみしている自分がいたからだ。その日、笹山くんが現れなかったのはたまたまだと思っていた。練習が長引いているんだろうな、休憩時間が削られたんだ、そう捉えても不思議はなかった。それでも次の日もその次の日も笹山くんは水飲み場に現れなかった。私も手を振り返すことはなかったし、寒くてベランダで弾くようなことはできなかった。同時に、学校内でもすれちがうことがなくなってしまった。渡り廊下を歩いている姿を二階から見かけるとか、六組の前を通り過ぎると声が聞こえるとか、そういったことでしか笹山くんに会うことはなくなっていった。
もともと友達でもなんでもなかったのだから、疎遠になれば一気に距離が開く。しかたのないことだと諦めてしまえば、それでよかった。
コンクールを前日に控えた私は、一人だけ音楽室に居残って個人練習室に籠りきっていた。それでも何時間も一人きりで向き合っていれば集中力がきれてしまう。諦めて休憩を取ろうと練習室を出て音楽室に戻ったら、先に帰って行った先輩や同級生が机の上にお菓子を置いて行ってくれていたらしい。しかも同じパートの先輩から“ほどほどにして帰るんだよ”とメモが残されていて、それだけで嬉しくなってしまった。
なんとなくベランダに出て見ると、まだ七時にもなっていないのに辺りは真っ暗で、月が綺麗に上がっていて、空気が乾いて澄んでいた。この中でヴァイオリンを弾くのは、きっと気持ちがいいだろうなぁ。でも指先が冷えて動かない。
「結城!!」
真っ暗な中で、ぶんぶんと大きく手を振る笹山くんの姿が見えた。久しぶりに、バレーのユニフォームを着ている彼の姿を見た気がする。なんだか声にならなくて、ただいつものように手だけを振り返していた。
「俺、レギュラー落ちたんだ。」
悔しそうに呟いた彼の言葉は、こんなに離れているのに私の耳まで届いてしまった。もしかしたら、とどこかで予想していたことだったから聞くのが苦しかった。朝も昼も、彼がシューズを持って体育館に走って行くのを何回か見かけた。一年生でレギュラーを守るのは、ものすごく努力しなくてはいけないんだろう。彼が言った通り、運動も音楽も変わりはないというのなら、毎日何時間も飽きるほど、練習したんだろうな。
「でも、それは一月前の話!!また、ユニフォーム貰った!!」
にっこりと、さっきの表情から一転して、こんなに暗いから見えるはずないのに綺麗な笑顔を見せてくれた笹山くんは、やっぱり最初の印象のままだった。出会った時のことを思い出して、思わず口パクで返事をしてしまった。
(お・め・で・と・う)
一瞬きょとんとした後、思い出しように顔を赤くさせて、少し不機嫌そうに彼は言い切った。
「俺の真似するなら、隣でやってよ。」
やっぱり、彼は優しくてぶっきらぼうで意地悪な、徹底して男の子だ。つまり掴みきれない存在ってところ。でも、それって当然だけどスバラシイことなんじゃないかとも、思うわけだ。知らないから知りたいと思う、これは十分自然な流れ。そして誰かのことなんて、最初から最後までわかるわけがないんだから、知ろうと思わない限り始まらない。
でももう、知らないから知りたい、じゃ嫌だ。知っているのに知らない、も満足できない。
なんていうか、形容しがたい男臭さが漂ってくるのはどうしようもない、確かにこのクラスに女の子は居ないのだから。いくら女の子以上に家事のエキスパートと言われる二郭くんが在籍していようが、加藤くんと佐武くんがいる限り腐臭手前のジャージはなくならないし、山村くんがいる以上は不思議な生物たちがいなくなることはないわけだし。
でも、この扉が開かずの扉なわけではないのだから。ノックをすれば、必ず開かれるわけで。開かれた先がどこの戦場よりも地獄絵図だろうと、彼は居るわけだから。
「兵太夫くんいる?」
そう尋ねなくてはなにも始まらない。
「ねぇきり丸。」 「あ?なにしんべヱ。」 「兵太夫がさ、毎日部活の休憩中に見てた女の子って、志乃ちゃんだよね。」 「入学した時からなー。しんべヱ、志乃ちゃんなんていったら殺されるぞ。」 「それは怖いなぁ…でも半年以上見つめるだけだったって、兵太夫もけっこう…」 「それ以上いうとほんとに命が危ういぞ。」 「あはははは。」 「ま、シューズ置き去り事件が本当に事故だったのかどうかは、兵太夫のみぞ知るってとこだよな。」 「…お前ら、そういう話は、志乃がクラスに帰ってからしろ。」 「やぁだへーちゃん、こわーい。」 「よしわかった、アタックされたいんだな?セッターだからってなめてんじゃねーぞ。」
入部したばかりの時、先輩たちの動きについていけなくて、落ち込んでいた休憩中に初めて見つけた。ヴァイオリンを真剣に弾く彼女。空の下で演奏している姿が綺麗だと思った。他人を綺麗だと思ったのは初めてだった。
知りたいと思った。そう思わなくては何も始まらない。
そういえば随分前に、空気が乾いているのに痛さはなくて、日差しが強いのに風がひんやりしている気持ちのいい日があった。それがいつだったのか、記憶をたどっても上手く最後まではいきつかない。ただ、その思いだせない焦燥感を少しだけ感じさせられるたびに、思い知らされることがある。望んでも手に入らないこと、ただ待つしかないものがあることを。
だから、その時が来るのならば嬉しい。その思いだせない何かを手に入れた時がくるなら。
きっとそれは俺が彼女を初めて見つけた日、彼女の名前を初めて知った日、ようやく彼女の名前を呼べた日、そして、隣に立てた日。
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