Y(及川徹)
休暇を取得して実家のある宮城に帰省していた彼から呼び出しをくらったのは、金曜日の23時過ぎ、同僚との軽い飲み会からの帰宅途中、地下鉄構内でのことだった。
知り合った当初は、事前のアポなしで男女関係なく他人と会うようなタイプではなかった。お互いのスケジュールを確認し目的を定めて移動手段を考え、待ち合わせ場所と時間を順に決めていくような、もしくはあちらがスマートに全てを提示するような、適度な距離感と良識的な行動力を発揮する男の子なんだと、特に疑うこともなく、騒がれがちな甘い彼の表情通りに受け取っていた。
けれど、ここ数年の及川徹の突拍子の無さは、半端じゃなかった。
元々私と彼は、同じ大学の同じ学部の同じ学科の同じゼミの割と気の合う友人同士だった。学業を疎かにすることなくインカレ常連のバレー部に所属し、将来有望なセッターとして活躍する彼と、本屋で週4のバイトをしながら友達とごはんして飲んでTDLとか行って耳着けてはしゃぐのも好きなら、部屋でゴロゴロ漫画を読むことも同じくらい愛していた私だけど、一緒にいるうちにいつの間にか仲良くなっていた。凹凸がうまい具合にはまってくれたというか。良くある、一緒にいるとお互いがラクっていうか。それでも彼の求心力は誰に対しても凄かったんだけど。同じ講義に出ていた時も、図書館で偶然出会った日も、食堂で昨日と同じカレーを注文した時も、大学近くの映画館でレイトショーを見に行った時でさえ、彼の隣には人がいた。それはもちろん女の子の時もあれば、男の子の時もあった。そしてどんな時も、彼は楽しそうにニコニコと笑っていた。誰とでも上手くやれる、それは誇るべき彼の美徳だった。
短い電話を一本寄越した後、そこから○○線に乗り換えてJRの△△駅で降りれば問題ないよ部屋直ぐだから、と間髪淹れずにどこもかしこも問題だらけ(主に終電問題)なメールを送ってくるあたり、彼の遠慮のなさは留まるところをしらない。気を遣われると縮こまりがちな私を慮ってくれているのかと思いたいけれど、100%その線はない。彼は本当に私に対して容赦ない。
大学の頃からだから7年くらい付き合いはあるのかな。それでもなんとなく、ニコニコしているのが通常モードというわけでもない、そのことに気が付いたのはお互いが社会人になるあたりだった。あぁそうなのかな、と今でも思う程度だけど、きっと彼はそんなにニコニコと笑うのが得意じゃないし好きでもないみたい。ただニコニコ笑っていた方が面倒事は少ないし、彼が続けてきたものを守るための一つの武器として有益だったのかもしれない。最近になって社会人になった私もそのことを理解した。それでも結局、彼に関しては全部、推測で終わるけど。
誘いを断った後が物凄く面倒なことを経験上知っているから、とりあえず彼の部屋を目指すことにする。差し入れも何も買わない私だって、彼をぞんざいに扱っているのかもしれない。でもまぁ、見た目は頑丈なので、そこのところは気にせずそのまま改札を潜り抜けようか。
「やっほー。」
ポーンと軽くボールを投げてくるような彼の声の出し方は、夜だと余計に目立つ。迎えに来るなんて言ってなかったのに、着く時間なんて知らせてなかったのに、いる。こういう時、突拍子もないし遠慮もないし容赦もないけど割と大事にされてるのかな、とは思う。とりあえず、手を振りながら彼の顔を見て少しだけホッとしてみた。
***
今回の帰省の理由が、幼馴染みの結婚式に出席するため、と言うことだけは聞いていた。
「牛タン解凍しといたから焼くけど、笹かまも出したら食べる?」
「食べたいけど、及川くん大丈夫なの?」
「量食べるわけじゃないし、酒も呑まないし、明後日まで休みだし、平気。」
「じゃあ遠慮せず食べる。」
「豆腐蒲鉾も美味しいんだよ。俺はチーズボールの方が好きだけど。」
綺麗な2LDKの新婚家庭用の部屋は今日も物が少なくて、稼働率の高すぎる大きなスーツケースが部屋の中で幅を利かせて見えた。そして吊るされたままの礼服が、今日はやたらと目についた。
「藤吉は?ビール飲む?」
「ううん、お茶か何かで。」
“親が撮り溜めてきたVHSをDVDに焼き直したんだけどさ、一緒に見てくれない?”
駅から部屋までの道のりで、彼が口にした言葉はそれだけだった。もちろん、本当に歩いて直ぐだった、ということもある。でも「ホームビデオなら実家で見ればいいじゃない」とか「子供の頃からモテてた自慢なんて今さら聞きたくない」なんて明らかにくだらない軽口だってわかる私の言葉にも彼は何の反応も示さなかった。私は私でそんな彼を横目で見ながらうーんと唸りつつ、とりあえず仕事よりも本腰を入れて向き合うことに決めた。
「ウーロン茶。」
「ありがと。準備出来たよ。」
「じゃあ、見ようか。」
再生ボタンを押す彼の横顔をチラッと見ながら、そんなに見たくないなら見なければいいのに、と言ってしまおうかと思った。
ホームビデオを見るような顔じゃないよそれ。そう言いたい本音を取りあえず呑み込んで、監視の目を用意してまでも見ようと決めた本人の意思を尊重することに決める。どんなに辛い練習であろうと劣勢の試合であろうと見た目に反してただひたすらストイックに励むこの人を、どうして温かいはずのアイテムがここまで追い込めるんだろう。一体どこにホームビデオ鑑賞を、苦行のように受け入れる人がいるんだろう。わからない。
***
部屋の中では過去が主役だった。ただ私と彼はウーロン茶を飲み、思い出したようにお土産のつまみを噛む。彼の目線はテレビから一ミリたりとも動かず、私の目線はそんな彼とテレビを行ったり来たりしていた。ホームビデオの中では至って普通の、ありふれた子供たちの、良くある家族の営みが延々と繰り返されていた。響き渡るのは無邪気な笑顔と、歓声と泣き声と。ただ、叱りつける大人の声に必死に対抗しようとする小さな姿と小さな姿が、そこにはいつも並びで二つあったけれど。
その男の子があんまりにも彼の隣にいるものだから、最初は家族か何かかと思ってしまった。心底嬉しい楽しい楽し過ぎて幸せ。そんな表情でいわちゃん、と口にする幼い彼が何度も何度も何度も私の前を過っていく。だからこそ、この男の子は家族なんかじゃない、そう気が付いた。そして徐々に幼い彼が小さな彼になって、今より少し初々しい姿を見せる様になっても、いわちゃん、と口にする時の彼の表情と感情だけは子供の頃から変わらずにあるみたいだった。
広い三人掛けのソファで、片膝を曲げ、その膝を両手でギュッと抱えながら静かに映像を眺め続ける彼が、何を考えているのか私にはさっぱりわからない。私は映像の中の『いわちゃん』のように彼の隣にはいなかったのだ。彼のことを推測するばかりで、本当のところは何一つ、何にも、知らないのだ。
「結婚した幼馴染みって、この男の子?」
「うん。そう。岩ちゃん。」
「お式、良かった?」
「うん。良い雰囲気だった。」
「そう。」
親しいはずなのに突然、まだお互いに良く知らない頃の、もしくは親しさの芽が顔を出すか出さないかの曖昧なバランスに留まっていた頃の緊張感が蘇ってくることが彼との場合は時々起こる。そういう時はいつも、見つめ合うでもなく、会話をするでもなく、ただぎこちなく言葉をぽろぽろ溢し合うしか私には出来ない。恐らく、彼もそうだ。きっと、この男の子とはこんな時間、過ごさなかったんだろうな。何を話して良いのかどこに手を伸ばせばいいのかわからなくなるなんてこと。いくら私が、この男の子に似ていても、それだけは再現出来ないんだってこと、彼はもう気が付いてるのかな。
「藤吉を連れて帰ったら、岩ちゃんびっくりするかな。」
初めて会った時、彼は私を見て目を見開いた。何度か言葉を交わすようになった時、見た目より子供っぽい人なんだなと思った。二人で会うようになってから、私といる時と他の人を交えた時では態度が違うと、良く陥る誤解をしそうになった。何年か経ったとき、それは誤解じゃないんだと確信した。どうして彼は私を隣に選んだんだろう、いやいや男女関係なんて明確な事由なんて見つけられないしそういうものかと、知らなかった私はそれだけで納得出来た。まさか、自分の前に自分のポジションにいた相手とこうして出会うことになるなんて、予想出来るはずもない。
映像の中のいわちゃんが怒鳴る度に、彼がヘラヘラとだらしなく楽しそうに笑っている。ああどこかでみた光景だな。突拍子なく遠慮なく容赦なく彼に向き合おうとするところも。彼の隣で構えず豪快に笑うところも。背中を叩いて肩を小突いてしっかりしろと声を掛けるところなんて。普段の私と、及川くんじゃない。
「結婚するって言ったら、岩ちゃん驚いてくれるかな、」
「藤吉となら、法的にも一緒にいる手続きが出来るんだよね。」
「誰でもいいから、側に居てほしいわけじゃないんだ。好きな人にだけずっと、側にいて欲しかったんだよ。」
「好きな人に隣で背中押されてさ、ダメなやつって言われてさ、そんなことないよってヘラヘラ笑ってたかったんだよね。」
それがきっと、彼と、彼の好きな人との日常だったんだろう。そうやってずっと本当に心の底から楽しくヘラヘラ笑っていたんだろう。人好きのするニコニコとした笑顔なんかじゃなく。馬鹿みたいにヘラヘラって。
「藤吉は、俺の側にいてくれる?」
映像は、彼といわちゃんが満面の笑みでこちらを見ているところで途切れた。それでも彼の視線は、テレビから一ミリたりとも離れない。ねぇ、及川くん。あなたはどうしたいの。私にどうして欲しいの。私は、あなたの幼馴染みとは違う、幼馴染みにはなれないの。言って貰わないと望んで貰わないと、何にも出来ないんだって気づいてないの?
「こっちにきて。」
いつも、いつだって私たちの間には不自然な隙間があった。三人掛けの広いソファの端と端に座るのが当たり前になってしまった私たちを、隙間だけが繋いでた。
「来てくれないなら俺が埋めちゃうけど、それでもいいの?」
そうしていつの間にか距離を無くした私たちは、お互いを誰よりも近い相手だと思い込んでいたのかもしれないね。
「隣に、いてくれるよね。」
縋るように伸ばされたその手を、彼の幼馴染みが払ったことはあったのかな。そんな誰かの代わりに彼の手を両手で包む、一体そこに何の意味があるって言うんだろう。私が彼の隣を埋めることに、どんな意味があるっていうんだろう。
「絢、」
それでも差し出されたその手を取ったのは、ずっと彼の隣を離れなかったのは、私自身がずっと及川くんだけに隣を埋めていて欲しかったから。たったそれだけの、それだけが大切な理由だった。
一番近い存在にきっとなれたはずなのに、あなたはずっと、遠い人なんだね。
※ぽうさま
今回は企画に参加して頂き本当にありがとうございました!リクエストに沿えていたかどうか、ただそれだけが心配です。もう少しトーンの明るい話を目指していたのに低く落ち着いてしまったり、かっこ悪いを通り越して不安定になってしまったり…ただ、及川徹は書いていて楽しく、良い意味で難しいキャラクターでした。何回も挑戦して追及してまたぽうさまに読んで貰えるような彼の話を書いてみたいと思います!今回は本当にありがとうございました。
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