「“レ・ミゼラブル”のどの部分が好き?」
「え、そうだなぁ…コゼットのお母さんが、彼女の薬代のために“美しい真珠のような歯”を差し出したところ、とか…」
「あぁ…献身とか親だから当然とかじゃない、状況の辛さを表現してるのに綺麗に思えるね。」
「私には出来るのかなって、悩んじゃった。“たけくらべ”は?」
「んー、一番は内容が好きなんだ。」
「男の子が読んでそう思えるんだ?」
「信如と美登利の話じゃなくて、実の母親が子供を売りながら穏やかに暮らしているところが、そういう人もいるんだなって安心できる。」
閉館時間の過ぎた図書室、先生から鍵を預かった不破くんに、本の話しでもしようか、と引き留められた。
彼の前で泣いてしまった自分がズルく感じられて、私が距離を置いたからだと思う。あまり、楽しそうな表情じゃなかった。
「それは、新鮮。」
「でも、姉妹を遊女に仕立てて不自由なく暮らすんだからね、感覚が歪んでるとは思うよ。」
慰めて欲しかったのか、嫉妬でもしてくれたらって期待したのか、安易な私に対して彼は冷静だった。優しいけれど、そうじゃない。
「そういうこと言うやつは、怖いかな?」
二面性じゃない、裏表じゃない、分離しない。ひとつなんだ。例えるなら螺旋階段、進むに連れて見えなくなっていく感覚の相手。
「怖くないよ。」
優しいだけの相手より安心するよ、きっと。
***
長机に対角線上に座って、お互い肘をついたまま喋る。ゆっくり口を動かす人だと思った。怠慢とか面倒くさいとか、そういうルーズなテンポじゃなくて。
「暑いね。」
「五月なのに。」
開け放した窓が、風を運び入れた。彼の柔らかそうな髪が揺れてる。
「わぁ…」
「なんだい?」
「ふわふわ動くから、髪の毛が…」
「名は体を表すんじゃないかな。」
「触っても、いい?」
答えを聞く前に、人指し指だけでそっと触れてみた。誰かに触れるっていう安心感が、きっと通った。
「穂村さんの手つきって甘いよね。」
にっこり、久しぶりに正面から笑顔を見たと思ったら、身を乗り出した彼が髪を一房握り締めて見せた。
「触るって言うのは、相手を傷つけることに似てると思うんだ。」
強く引っ張られた髪が痛い。上半身を机に乗せながら、側にある顔から、唇が動く。
「力を込めないと、ちゃんと届かないし触れられないよ。」
***
掴まれた髪の毛の一本一本が性感帯だったらどうしよう、ふいに思った。
「途中まで一緒に帰ろうか。」
暑いと、今度は伝えられなかった。
「明日は午前授業だね。」
「ここぞとばかりに書庫の整理を頼まれたから、いつもと同じ。」
一緒に潜った門の向こうから、強く風が吹いた。一瞬で、ぶわりと髪が踊った。
「さらさらだ、」
そう言ってそっと私の髪を整えた彼の手つきは誰より優しかった。
私はそう思うんだ。
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