ブラックボックス

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世界が何色で出来ていたのか、私にはわからない。



私の目の前には毎日違った光景が、色合いが滲んで映し出されていて、その中に飛び込むように走り続けていた。それがどれほど幸せだったのか、当然のものとして浴びていたその時には理解できなかった。走ることが私にとって鮮やかな色彩に繋がっていたとは予想もしなかったから。大会で初めて一番にゴールテープを切った時は目の前が真っ白に染まった。合宿中でダッシュを繰り返した時は、乳酸が溜まるのを感じながらも、動かない足を回し続けたせいで周囲が黄色く点滅したように見えては吐きそうになった。スランプに陥った時、周囲が順調に自己ベストを更新していく様をみて唇を噛んだら真っ赤な血が滲んでいた。中学最後の大会でようやく納得のいくタイムを更新した時の空が、真っ青だったときほど嬉しかったことはなかった。



あの日。中学の卒業を控えるだけだった、浮かれ気味の私。高校に入ってからも当然の様に走り続けるため、頼んでいた新しいスパイクを取りに行った帰り道。その時の記憶はいまだに薄ぼんやりとした塊のまま。ただ覚えているのはまだ青いはずの信号と、車の眩しいほどのヘッドライト。



その瞬間に私の目の前は黒く塗りつぶされた。色を光として見るときに、全く光のない状態を黒、と言う。その事実を引用していいならば、私の目からは光が消えてしまったんだと思う。あの鮮やかなたくさんの色を写すための光が、なくなってしまった。



なくなってしまったのか、自分から見ることを諦めたのかは、まだわからないけれど。





「結城!!おはよーう!!朝から元気にクソしてきたか!?」
「神崎の挨拶は、時々悪意すら感じるよね。」
「知ってるか?健康なら朝から出るもんなんだぞ、寝てる間に食べた物は消化されて溜まってるんだからな!!」



昇降口までの開けた道をサクサクと歩いていれば、いつものように軽快な足音が近づいてきた。うんざりするのは、その走り方がどこのどいつか姿を確かめなくても、察しが付くようになってしまったこと。そして、その馬鹿みたいな大声を聞かないと、落ち着かなくなっている自分に。



「あんたの下半身が健康なのはよくわかった。」
「うわ結城ってば朝からなにえっろい話ししてんのー?左門、耳ふさいどけよ。」
「お、三之助、おはよう!!」
「次屋くんは頭の調子が今日も良くないみたいだね。」
「またそうやってツンツンする。あんなに楽しい夜を過ごした仲だろ?」
「な…!!三之助、結城に不埒な、」
「してません。じゃなくて、されてません。」
「そ、一緒にブランコ揺らしてきただけ。」
「なんだそれ!!めちゃくちゃ楽しそうじゃないか!!僕も混ぜてくれればよかったのに!!」



私を間に挟んで応酬されるかなり下らない会話(あの藤内が振られたらしいぜ!!まぁじでぇ!?)を右から左、左から右に聞き流しているうちに下駄箱に到着する。そそくさと教室に向かおうとすれば、むんず、と掴まれる両肩への大きな手のひらの感触。わざと目一杯胡散臭そうな表情で振りむけば、福の神も脱帽するだろう、にっこにこの笑顔の神崎がいた。



「なに。」
「今週の土曜日暇か?」
「なんで?」
「質問に質問で答えるのはどうかと思うぞ?」
「…時間はあるけど暇っていうわけじゃ、」
「学校で午後から試合があるんだ。見に来いよ、な!!」
「試合?」
「練習試合だけど、昔からのライバル校が相手なんだ。早慶戦?巨人対阪神?因縁の日韓対決っていうのか?」
「ほぼ野球の例えだけど。」
「うん、まぁつまり、素人目に見ても面白い試合になるだろうし、どうだ?」
「悪いけど、そういう気分じゃないし…」



いつまでたっても、私のこの性格の悪さは直らない。本当に治療してどうにかしたいくらいだ。神崎が真剣に走り回っている姿を直視しようとするほどに、どうして自分はもうトラックを走ることが許されないのか、その解決されない疑問にぶちあたってしまう。神崎のぶれることがないあの走り方が私は好きだ。何かを追い続ける様に無心で走り続ける姿勢が、綺麗だと本当に思えるから。そしてそう認識すればするほど、神崎を真っ正面から見ることが私には出来ない。



そして行き当たるのは、こんな卑屈で卑怯で可愛くない自分と神崎は決して並べないと言うこと。あっちが真っ直ぐであればあるほど、天秤の釣り合いは傾いてしまう。



「困る!!それはものすっごく困る!!」
「別に私が行ったところで何も変わらないし、困る事ないでしょ。」
「結城がいないと、今回は頑張れない。」
「…何その限定用法。」
「今度の試合は絶対、負けたくないんだ!!」
「普段から努力してるんだから、神崎が負けるわけないでしょ。ほんとに私関係ないって。」
「馬鹿、自分の大好きな相手に見て貰えるなら馬力がかかるだろ!?」



そういう素直な切り返しばかりを聞かされるたびに、逆に追い詰められていく感覚に落ちていくのはなぜだろう。もう苦しいどころじゃない、痛い。目の前にいるのが辛い。逃げ回ってばかりの自分が、神崎のまぁるいキラキラとした目に写されているから?



「それなら、余計に無理だよ。」



いつも、あははは!!と大口を開けて笑っている神崎の顔が、止まってしまった。傷つけるとわかっていたのに、私は言葉を変えずに口に出した。音に乗せてしまった。いつも豪快な感情しか表さないのに、そんなコロコロ変わる様をどこかで楽しんで期待していたのに、私が凍らせてしまうなんて。



「そっか。」



自分の代わりに明らかに怒気を含んだ態度で私に迫ろうとしてた次屋くんを、いつものニカッとした笑顔で押さえると、私の手を一度だけぎゅっと強く握りしめてから、ぱっと離した。そんな、表情を見たかったわけじゃないのに。いつからなのか、走ることをなくしたときからなのか、私はこんな風に誰かを傷つけてしまうようになった。ただの、こんなのただの八つ当たりでしかない。



「ごめん神崎。」
「うーん、謝られても諦めないけどな!!」
「でも、」
「気が向いたら、でいいからな。見に来いよ!!」
「…ごめん。」



神崎の前から走って走って走って逃げた。走ることをこんなことに使うのは、汚いってずっと思ってた。でもこれ以上目の前にいるのもいられるのも出来なかったから。笑顔の相手から、言葉を振りきって逃げることほど、苦しいこともないと初めて思った。





「酷い顔。」



駆け込んだ教室でだらしなく机に腕を投げ出して、その上に考えすぎと無駄にこんがらがった頭を乗せた。ふと横を見れば、涼しい顔したクラスメイト。伊賀崎くんはまるでさっきのやりとりを見てきたように、私を視線だけで責めているみたいだった。神崎と幼馴染みだという彼が、今の私をそんな風に見たって文句は言えないだろう。



「勘違いしないうちに言っておくけど、別に怒ってないから。」
「そう。」
「ただ、逃げたのはどうかと思う。」
「見てたんだ。」
「朝の昇降口に入れない生徒がいるか?」
「いません。」



呆れたように、これ見よがしと大きく息を吐いた伊賀崎くんが、突然私の前にしゃがみこんで、その場で頭をぐしゃぐしゃに掻きまわした。驚いて顔を上げようとすれば、力が入って押さえつけられる。このままの状態で話を聞け、ということらしい。



「考えすぎは効率が悪い。」
「考えないわけにはいかないよ。」
「今の結城の頭の中も、きっとこんな感じ。」
「だろうね。」



苦笑い気味の目の前の彼が一瞬だけ優しい目をした、気がした。かと思うと、今度は逆に優しい手つきで髪が整えられていく。



「僕は、割と結城のこと気に入ってるんだ今でも。」
「それは、どうも。」
「左門のことは大事だ。けど、結城がまた、笑えるようになるのも重要。」
「え?」
「そのきっかけが、僕は左門にある気がしてるんだ。」
「神崎に?」
「左門の笑顔って最強だろう?」



はい、元通り。そう言って何もなかったかのように自分の席に戻って静かに本を開いた彼を、他のクラスメイトたちは、誰も何も見なかったかのように振る舞うことで自分たちの内心の驚きを隠しているようだった。私だってびっくりして身体が硬直してしまった。私の中の彼は他人にお節介をするようなタイプじゃない。だけどどうやら、友人へのフォローを欠かすこともしないようだ。この場合の友人が、神崎なのか私なのかが曖昧なままだけど。





放課後はもう7時近く。誰もいなくなった美術室で、ただ真っ白なキャンバスを前に突っ立っていた。この白さの上に、自分がどんな線を引きたいのか、色をのせたいのか、もうちゃんとわかってた。わかってたし、そのためにはどんな行動を起こさなきゃいけないのかも気付いてた。



メインスタンド前の直線セパレートレーン。花形の100m。スタンドからの応援も、コーチからの最後のアドバイスも、耳に入ったことなんてなかった。走る前はいつもそう、息をするのに必死だった。スターティングブロックに構えて、スタートの姿勢を整える。一回だけゆっくりと細く息を吐けばもう次の私はゴールテープを切っている。自分の中の方程式が、走るときには有効だったのに。



私は臆病だ。


当たり前のものを失った時に、どうしたら立ち直れるのか誰も教えてくれなかった。教えられなかった。だから走れなくなったことを知った時よりも、描くことを覚え始めた時が何より怖かった。私は何かを失って、そこから回復する術をまだ身につけられてない。それなのに、また大事な何かを手放すことになったらどうすればいいのか、そればかり想像してはそのただの仮定に泣きそうなほど怯え続けた。きっと、落ち着いたように見えて今も。



だから「大切」の括りに入れないように必死だった。



それは、きっと、「描くこと」だけに留まらなくて。





言われていた時間を過ぎても、どうしてもあと少しの距離を縮めることが出来ずにいた。グラウンドからは歓声が絶え間なく響いて聞こえるのに、それでも臆病で弱虫の私は動けずに立ち竦んだきりだった。克服するためには、進むしかないと、わかってるのに。



「ほら、僕の勝ち。」



俯いていた私の手をさっと掬い上げたのは、ふわっと微笑む数馬くんだった。神崎と仲が良いのだからこの場にいても何もおかしくはないけれど、それならむしろ試合が始まってるのにこんな場所にいることのほうが不思議だ。



「あー、ほんとだ。ま、なんだかんだ来るとは思ってたけどさ。」
「嘘つけ、“左門もいい加減に失恋決定だな”とか言ってたのはどこのどいつだ。」
「自分が初めて振られたからって、左門まで同類にすんなよタラシ。」
「いや、三之助にタラシって言われるのだけは不服なんだけど。」
「…なんで揃ってこんなとこにいるの?」



後ろからやってきたのはいつも通りの浦風と、腕組みをしたままその浦風を責め立てる富松と次屋くんだ。相変わらずニヤニヤ顔を張り付けた飄々とした様子の浦風が私を見て、予想外だ、と呟いた。私だって土曜日に制服着たまま男と一緒にいるあんたを見るとは思わなかったからお互い様だよ。



「数馬が、“絶対志乃ちゃん来てる!!”って譲らないから探しに?」
「迎えにきたんだよ、ほら一緒に行こう。」
「でも、わたし、」
「まーだびびってんのか?お前もうだうだうだうだうだうだうだうだ…!!早くしねぇと試合が終わんぞ!!」



繋いだ手を引きながら、グラウンドに向かおうとした数馬くんに待ったをかければ、富松の米神に青筋が浮かび上がる。この調子だと雷が落とされるのは間違いなさそう。それでも躊躇っていれば、後ろからトン、と優しく背中を押された。



「終わったら描けないままになるんじゃねーの?あんたそれでいいの?」


今日、神崎が真剣にサッカーをする姿を自分の目に焼き付けて、私はキャンバスに写すことを決めた。そう、決めたから今、ここにいるんだ。



「行く。」
「じゃあ、」
「それなら、」
「今から、」
「走るよ?」



四人に両腕を掴まれてグラウンドまで走りだす。ただの練習試合にも関わらず、神崎が言っていたようにライバル校との対戦のせいかギャラリーの数も多く、どこで見ようか戸惑っていたらグイグイ引っ張られていく。ようやく足が止まった先には、伊賀崎くんが待っていた。四人が私を迎えに来る間の場所取りを買って出ていてくれたらしい。



「遅い。」
「ごめん。」
「でも、今日は良い顔してる。」
「そうかな?」
「そうだよ。」



綺麗に笑う彼が、徐に指差した方向には神崎が試合中にも関わらずこっちを、多分私を見ていて、両手を使って目一杯振っていた。それに気付いたチームメイトに頭を小突かれている。それでも豪快に口を開けて笑っている姿が見えた。



「馬鹿だなぁ。」
「知らなかった?」
「知ってたよ。」
「左門って、結城が絡むとものすっごく馬鹿になるんだ。」
「知ってたよ。」


知らない振りは、もうやめよう。好きだっていう言葉を無視するのも、もう終わりにしよう。失うのが怖いからって、「大切」なものを作らない臆病な態度も、変えよう。神崎の真っ直ぐ。ぶれない。そして真剣な姿勢を真っ正面から受け止められる私になろう。



「左門、頑張れ。」





いつもの月曜日、いつもの学校への道程。だけど少しだけ違うのは自分。突然切り替えることができないのはわかってる。まだ、右足の引き攣った傷跡を見るのは辛い。でも、なかったことにはしない。走っていた自分を忘れようとするのも、もうしない。だからといってトラックを眺めても平常心でいられるほどまだ強くない。走りたい、その想いは今でも大事にしまってある。でも、私には新しいキャンバスがある。それを彩るためのたくさんの色を持ってる。もう目の前が黒に染まることはない。



ザッザッザッ



またいつもの足音がする。私に向かって一直線に走ってくる軽快な靴の音。一緒に揺れるボールの音、後5メートル、3メートル、1メートル、すっと息を吸う音と隣から聞こえるいつもの彼の声。そして子供っぽい笑顔。



「結城!!おはよう!!」



神崎に言われてから初めて知ったことがある。色んな意味で、奇跡はあるんだってこと。



「おはよう、左門。」



ねぇだから、こんどはあなたが私の光になってくれませんか。私にまた、たくさんの色を見せてくれませんか。一緒に、見つけてくれませんか。馬鹿みたいにおっきな笑顔と、声と、その真っ直ぐな優しさで。



「…あ、おはよう…?」
「うん、おはよう。」
「あれ?おはよう?」
「いつもみたいに大きな声でいってくれないとわからないよ。」
「は、初めておはようって、返してくれた!!」
「うん、おはよう。」
「あぁあああ結城!!大好きだ!!」



やっぱり私の世界に不器用な手つきで色を塗るのは、あなたがいいな。


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