赤い靴
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「結城!!好きだ!!」
「飽きた。」
「好きだって言われ慣れてるなんて、お前その年にして…」
「いやいや。原因が何を批判するわけ。」
HRを終えて抜け出した放課後の廊下、いつもの光景が目に飛び込んでくる。決まった言葉、変わらない態度、まるで脚本通りに動いているようなのに左門は毎度違う表情をしている。あいつは本当に、へこたれない。その一点だけで尊敬に値する、かもしれない。
「お、孫兵一緒にグラウンド行こう!!」
「今日分は満足したのか?」
「全っ然。でもこれ以上言うと、結城が照れるだろ?」
「誰が照れるって…?むしろ神崎、自分の発言に少しは自重を覚えて欲しい。」
「…こう言ってるけど?」
「早速照れ隠しだよなぁ。いいよわかってる!!僕はそんな結城も好きだから問題ない!!」
「伊賀崎くん、早く私の前からそれ、連れていってくれないかな。」
「左門、行くぞ。」
「おー。じゃな、結城!!鼻の頭に絵の具付けて帰んなよ〜」
「まるで以前にその状態で帰ったことがあります、みたいな誤解を与えないでよ…」
がっくりと、ただ会話をしていただけのはずが、結城は疲れたように肩で息をしていた。彼女は当たり前のように美術室に向かう。僕や左門と一緒にグラウンドへ進むのではなく。
左門と僕は幼馴染だ。小・中と地元の公立ではなく、毎朝県を跨いで大学付属の私立に通っていた僕にとって、唯一と言っていいほど遊び相手になってくれるのは左門だった。一度入ってしまえばエスカレーター式で順調に進学できる校風は、穏やかで緩くてそれなりに過ごしやすかったけれど、高校から公立に戻るというのは願ってもないことだった。付属の大学に進学しても僕の志望する専攻は設立されていなかったし、左門と同じ学校に通いたいと長年思っていたのは事実だった。
そして何より、彼女がいるはずだったから。
「なぁ孫兵、結城の走る姿ってどんな感じだったんだ?」
「綺麗だった。フォームに無駄がなくて良く出来たお手本みたいで。」
「なんかすげー想像つく…見てみたかったなぁ!!」
見せてやりたかった。きっと左門なら絵筆を握る姿ではなく、真っ赤なスパイクを履いた彼女でも見つけ出したに違いないから。
大会記録を毎回塗り替える、無駄にパフォーマンスが派手、個人競技の最たるもの、陸上業界にもスター選手は必ず存在する。彼女も、その中の一人だった。普通他の競技を見に行くのは準決くらいからだけれど、彼女の場合は違った。彼女がトラックに入るとまるで偵察のように他の学校の関係者が現れたし、勇気があるというか馬鹿正直なのか、何人かは直接アドバイスを聞きに行っていた。彼女の走り方の前には、プライドも何もなくなるのかもしれなかった。それくらい、綺麗だったから。
『伊賀崎くん、アップお終い?』
『あぁ。そっちは午後一で決勝?』
『うん。ここ、静かでいいよね。」
競技場の外、騒々しい内側とは違ってこんなところで寛いでいる選手は多くない。結城はベンチコートを芝生の上に敷いて、その上でいたってマイペースにストレッチをしていた。
『決勝見に行くね。』
『それはどうも。でも短距離専門が、中距離なんて見て楽しいか?』
『そっくりそのまま聞き返してあげるよ。』
『結城の走り方は、参考になるからな。』
『伊賀崎くんの走り方は淡々としてるから、見てて安心する。』
『ふーん?』
一年の頃から、お互いに顔と名前は知っていた。初めの大会で新入生にも関わらず僕は入賞し、彼女は二位という成績を残した。つまりお互いに“期待の新人”という看板を背負わされた。種目は違っても電光掲示板に毎回残る名前は印象に残ったし、同じ立場にいるのに僕との違いが見た目にも羨ましかった。僕は真夏の炎天下に何時間何日外にいようと日焼けをすることはなく、あっても時々真っ赤になるくらいで、まるで陸上競技者には見られなかった。
まっ黒になったのは頑張っている証拠、なんて考えはなかったけれど、部活でも大会でもこの病的な白さが悪目立ちしているのはわかっていた。陰口を叩かれたことも一度や二度じゃないが、そんなものはとことん無視し続けたから問題ない。僕はただ走れればよかったのだから。対して結城はいつも綺麗に日焼けしていて、ただそれがいいな、と思っていただけの話だ。そこまで背が高いわけではないけれど、長い髪を一つに結び、姿勢よく伸びた背筋と真っ直ぐな脚、トラックに入ると笑いもしない真剣な表情は羨望を一身に集めていた。
そして彼女が走る度に、真っ赤なスパイクが目立った。それは短距離のせいで一瞬のことだったけれど、だからこそ残像のように誰の目にも残ったはずだった。そして彼女が三年に上がる頃には、短距離で誰も赤いスパイクを選ばなくなった。
『伊賀崎くんは、そのまま上に進むの?」
『いや、外部に進学する。』
『陸上に強いとこ?』
『走るのは好きだけど、高校は進学のために選ぶ。』
『スカウトきてるのに勿体ない。』
『それは結城もだろう?もちろん強豪校に進むんだよな?』
『ううん、私も普通に公立受けるよ。陸上はもちろん、続けるけど。』
『勿体ない!!』
『え?私からすれば伊賀崎くんこそ勿体ないけど。』
『どこに進むつもりなんだ?』
彼女が告げた高校名を聞いて、今度は同級生として同じグラウンドで練習ができるのかもしれないと思った時は、素直に嬉しかった。受験を終えた時は、入学式で彼女に会えるのを楽しみにしていた。けれど、再会するはずの学校のグラウンドに、結城が現れることはなかった。赤いスパイクを履く彼女の姿を見ることは、僕にはもう二度と訪れなかった。
『結城!!』
『え、伊賀崎くん?嘘、学校一緒だったの?今まで会えなかったのが不思議だね。』
『結城が、グラウンドに現れないからだろ。なんでだよ、陸上続けるんだろう?』
俯いて見えた学校の上履きに、一筋入る学年カラーの緑が見えた。違う、彼女の足を彩るのはその色じゃない。視界に揺れる真っ赤な色だ。
『あー、だめになっちゃった。』
『え。』
『怪我、しちゃった。』
『怪我って、そんな治るだろ?また完治してから始めても遅くないだろ…』
『私もそう思ってたんだけど、』
『だったら!!』
『たまに走るのは問題ないけど、続けることは無理だって。』
宣告されちゃった。
深刻なことを軽く告げる、そのせいで走れなくなった彼女の辛さが伝わってきた。言い方は明るいのに、笑えていない表情が本当に痛々しくて、見ていることができなかった。専門の違う僕と彼女に共通点があるとすれば、それはただ“走り続ける”ことが大好きだ、ということだから。
『伊賀崎くんと走るのも、悪くなかったかもしれないのにね。』
僕の顔を見ずに、手に持っていたスパイクだけを見つめて彼女はそう言った。それは僕の言いたいことだと、きっと廊下じゃなかったら叫んでいた。
「まごへーい!!」
いつものようにトラックを走っていたら、芝生の上から左門が両手を振っている。軽く手を振り返したらリフティングを得意げに披露していた。あいつの馬鹿みたいな笑い方を毎日無償で貰っていれば、結城も走っていた頃のように、笑えるかもしれない。
僕は彼女の普段を知っていたわけではないけれど、少なくとも以前はもっと笑っていた。走り終わった後に一瞬見せた笑顔を側で見たいと今でも僕は思い続けている。それが例えグラウンドではなかったとしても、だ。もし、傷を負ったことが笑うことまで奪ったのなら、それぐらいは返してあげて欲しい。彼女から走ることを取り上げただけでも満足すべきなのに。でもきっと、僕がそうだったように、彼女も左門が側にいればまた笑えるようになるはずだから。
飽きたって言われても、馬鹿じゃないのって呆れられても、左門には諦めないで彼女に笑いかけ続けて欲しい。
今日も左門の赤いスパイクが、交互にボールを支えていた。