白の時代
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僕の世界は原色だった。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の虹色。人の目に見える色彩とは、この七色が基軸になるらしい。その意味が表す通り、恐らく僕の目にする光景はその七色だけで作られていて、どっちつかずの中間色は存在を許せず、モノクロームの単一色は意識的に排除していた。
そこに彼女が現れて、一滴真っ白な何かを落としていった。
最も弱いはずのその白に目の前が塗り替えられていった。
大嫌いなはずのその色に、世界は変えられたんだと、思う。
「結城!!おはよ!!」
「神崎、うるさい。」
「挨拶は人間社会の基本だぞ!!それができないでどう生きてくつもりなんだ?」
「あんた以外には相応に返してるから。」
「そうか、僕と結婚すれば社会に出なくても問題ないな。」
「挨拶するなら、脳味噌起してからにした方がいいんじゃない。」
「僕は毎日五時起きだからな、覚醒してるに決まってるだろうが。」
「じゃあ外れたネジを富松辺りに留めて貰ってきたらどうかな。」
「作兵衛?ネジ?一組の下駄箱壊れてるのか?」
「朝から会話に付き合った私も、脳味噌がきっとまだ寝てたんだと思う。じゃ。」
「いやいやいや、結城西棟の三階だろ?一緒に行こう!!」
「…富松に感謝されたいから一緒に行ってあげる。」
僕の朝は、結城に挨拶してから始まると決めてる。部活の朝練を終えて、制服に着替えて汗がひかない中でスパイクを磨いて、大体毎日八時過ぎ。彼女の登校時刻に合わせてむさくるしい部室の扉を開ける毎日。例えば彼女の姿を昇降口に見かけた時は全速力で走って、校門からの道程に見つけたら何気なく小走りで近づいて。
「一組って日本史だっけ?」
「日本史、世界史混合クラス。」
「結城って理科系は?」
「化学か生物でまだ迷ってるけど。」
「日本史に化学にしろ!!」
「はぁ?」
「そしたら僕と来年はクラスメイトだ。」
「社会科はもう変更効かないから生物でいきます。有益な情報をありがとう。」
「ひでぇ!!」
彼女が挨拶を返してくれたことはない。いつも顔をしかめて「神崎、うるさい。」のお決まり常套文句。だけど、そう言われるとわかっていても僕は彼女の姿を見つけると一直線に走らずには居られなくなる。
「富松!!あんた保護者自認してるなら毎朝玄関まで迎えに来たら?」
「自認なんて誰がするかよ!!」
「おう作兵衛!!」
「左門、お前も懲りねぇな…」
「ちゃんと引き渡したから。」
「さんきゅ。」
教室に着いた途端、結城は廊下側に取りつけてある窓を勢い良く引くと、作兵衛に話しかけ出した。突然名前を呼ばれたことに驚いたらしく、いつもより作兵衛の目つきが厳しい。一時間目に当たるはずの英訳を学校で解いているのかと思いきや、見直してるだけらしい。まともな作兵衛のしそうなことだ。言うことを言ってすっきりしたらしい結城は、そのまま隣の教室に入って行こうとしたが、最後にどうしても引き留めたくてどうでもいいことを話題として振ってしまった。いつも、僕はこんなんばかりだ。
「そうだ結城、いつでもサッカー部の見学に来ていいんだからなー。」
「私が見に行ってどうすんの。女なんですけど。」
「マネマネ!!」
「残念ながら美術部だけで精一杯です。」
「お前さ、あんだけ賞とかコンクールとか出てんだから少しは手を抜けよなぁ。」
我ながら、馬鹿なことを言ったと思った。結城が自分の作品を作る際にどれほど集中しているのか、色々な物を投げ出して注ぎ込んでいるのか、仮にも姿を追って見てきた僕は知っていたはずなのに。その精一杯頑張っていること、に対して手を抜け、と言われたら温厚な自分でもイラッとくるかもしれない。サッカー適当にやれば?とか言われた日には、誰かれ構わずぶん殴るだろうし。だけど、その時の結城の顔は予想とは大幅に違っていた。
何も顔に乗せていない、表情のない表情とでも言えばいいんだろうか。
「そんなこと言われたの初めて。」
「悪い!!手を抜けなんて言われて気分悪いよな、ごめん。」
「ううん。神崎の、そういうとこありだと思う。ありがと。」
「へ?ありがとって逆になんだそれ?」
「お礼なんだから素直に受け入れればいいのに。ま、そういうことだから。」
「お、おう!!」
さっきまでの真っ白な表情がどんどん消えていく。それがどこかで惜しいと思いながらも、いつもの少しつんつんした彼女の対応に落ち着いてしまう。
「…やっぱ期待される中で絵とか描くって疲れんだろうなぁ。」
「あ?」
「だーから、お前に気い抜いてもいいんじゃねって言われて嬉しかったんだろ。」
「あー。」
「気付いてなかったのか…」
「おう。」
「…お前のいいとこだわ。おら、結城の姿追ってねぇで自分だって英訳当たんだからやっとけよ?ノート貸さねぇかんな。」
「富松さま!!」
結城は、絵を描くことを、楽しめずにいるんだろうか?そんなのは嫌だ。結城が受け入れていても増して諦めていたとしても、僕が嫌だ。あいつが描く絵は、描く姿は、僕に違う景色の見方を開いてくれた。僕の単純な世界に陰影を、濃淡を、そして白という光を見せてくれた。
『絵なんて、下書きの上に絵の具をベタベタとのっけていくだけだろ?』
美意識があるのかと聞かれたら、自信を持ってゼロだと答えられる。僕には美術の才能が胡麻一粒ほどもない。だから一年の時に余りの課題作品の酷さに(自分の中では傑作というか快作)美術の単位を失う所だった。救済措置として風景画の提出を約束させられ、放課後の美術室に鬱々と籠もっていた三日間があった。大好きなサッカーから切り離されたあの三日間は今でも思い出したくないけど、結城と出会えたことだけ、それだけは別問題だ。
放課後に毎日通ったその部屋で、黙々と周りの美術部員と会話もせずにキャンバスに向かっているやつがいた。うちの高校の美術部は、割と真面目だと思う。運動部を止めた生徒が名前だけ在籍できるような雰囲気はなく、絵以外にも彫刻とかに打ち込んでいる生徒もいるらしかった。式典ではぽつぽつと、でも必ず誰かが表彰されていた。当時の僕はその程度の情報しか持ってなかったわけだけど。
僕と、その馬鹿みたいに集中力のあるやつしか残っていない部屋で、下書きをどうにか終わらせて、自分の好きな色ばかりで本当に好き勝手色を付けていた時、気付かない内に誰かが隣で僕の行動を見ていたことを知った。一度も喋ったことがない、ただ毎日飽きもせず筆を静かに動かし続けているやつ。咄嗟に、僕は馬鹿にしたような言葉を投げかけてしまっていた。
『そうかもしれない。だけどほら、君の世界には原色しか描かれないのかもしれないけれど。』
怒るわけでもなく、笑うわけでもなく、ただ少しの優しい表情を見せて自分の持っていた筆を僕の絵に勢いよく引いた。その時僕は怒る前に、簡単にいうなら多分、その横顔に圧倒された。正面からやられた。
『…ちょ、お前なにすんだ!!せっかく色づけ終わったってのに…しかもこれ、美術の単位取るための追加課題だったんだぞ!!』
『知ってるよ。先生から君の監督任されたんだから。』
慌てるでもなく、そいつはそのまま絵筆を僕に握らせて、その上から自分も手を添えると、一緒にまた色を引き始めた。
『色彩は救いを意味する、』
『あ?』
『ピカソの言葉。』
『ふーん…それならせっかく俺が色彩として塗ったくったのをお前は白い壁の中に塗り込めたんだな。』
結局、全てを白で覆いつくすまで手が離されることはなかった。ただ、出来上がったその絵を、僕は好きだと思った。白く塗りつぶしたのに所々滲む色が綺麗で。まるで、窓の外を再現したようだった。雪に覆われた地面の下には、必ず存在しているはずの色を纏った植物。
『あ。これ、今の季節だ。』
『君さ、そのまま提出したら写真見て書いたってばれてたよ。』
『まじでか!!』
『下書きを見ておけばよかった…明らかに夏の絵だったし。抽象画ならともかく題目が“身近な風景”なんだよね?』
『はい。その通りです。』
『感謝してよね。』
『だけどさ、ただ上から雪としての白い絵の具で覆っただけじゃん。』
『でも、これ、いいでしょう?』
『…確かに。』
『原色、諧調色、白色。全部が上手く重なってる。』
『僕の始め方がよかったんだな!!』
『…そうかもね、君の色の使い方は久しぶりに見て面白かったもの。』
『そうだろ!!』
『でも、白の大切さも知ってくれたら嬉しい。力がないように見えるけれど、薄め方や塗り方しだい、光の加減でも変わってくるから。』
その時の色や絵や描き方に対する熱心な様子は、そのままその全部が好きだ大事だ楽しくてしょうがないと僕に投げつけてくるような迫力があった。静かで、あまり感情を出さない結城の、そんな姿はその時限りしか見たことがない。
『白は、とても鮮やかな色なんだと思う。』
結城が僕の世界に白をのせた時から、世界は広がって見えた。深さが増した。
僕が結城を好きになった理由は、それだけでもう、充分だろ。