普段は甘く隠されている残酷な現実がある。それに気づくか気づかないか、見ようとするか蓋をしたままにするかは自由だ。
ただわかりやすいことを言うなら、美しい熱帯魚に勝るのは泳ぐことを止めない鮫だということ。鮫になるかなれるかなろうとするかも、実のところ選択だけなら自分の手に委ねられているのだ。
不毛な片思いをしているという点で、俺と夏帆は同類なのかもしれない。生まれたときから隣にいた相手を俺はそのまま、それこそ自分の相手だと、そう考えては想い続けた。彼女が俺を見ることはただの一度もなかったけれど。
優しい幼馴染、頼りになる兵助、いつでも真摯に話を聞いてくれるあなたがいてくれてよかったと、何度言われたことだろう。言われるたびに、他のただ一つの形容だけを望んでは馬鹿を見た。
それでも、彼女がハチと幸せそうにしてくれているなら、それでよかった。もう、それだけでいいと思えるようになっていた。そこに至るまでにどれほどの時間を費やしたのだろう。
そんなときに、彼女はあっけなく死んでしまった。あっけない、これが俺の思った唯一の感想だ。生まれたときから一緒にいた相手だというのに、ただ一人だけ大切だと思えた相手なのに、自分以外の人間で幸せになってほしいと願えた人だったのに。彼女は突然俺たちの前からあとかたもなく消えてしまって。
そして夏帆が現れた。
もしかしたら今度こそは俺を見てくれるかもしれないと思ってしまった。願ってしまってはいけないこともあると、学習したはずなのに。
彼女であって決して彼女ではないから。
夏帆が彼女に似ているのかどうか、本当はよくわからない。なんとなく全体が似通っているだけなのかもしれない。似ていて欲しいと強く願ってしまうから違いに気づけないだけなのかもしれない。ややこしいのは俺とハチ、屈折した愛情を抱くのを止めないのも同じだ。
それでも、そんな屈折しきった俺たちは彼女のそばにいるし、隣にいるのはハチだ。ハチが何を思って夏帆と付き合っているのかはわからない。言えるのは、好きだけでは収まらない感情を持っていることだ。もっとずっと、彼女を困らせるような類いの。
ただ純粋に好きと言う気持ちを量れるなら、俺は勝てたのかもしれない。でも現実はそうならなかった。それこそ二人はまるで用意された台本通りに動いているような、嘘臭い、だけど頭に残るような出会い方をした。
もう二年以上前、大学の学部内で行われた新歓コンパ。農学部のハチに誘われて、法学部の俺や三郎、理学部の雷蔵も、当たり前のように参加していた。
二次会へ移動する最中だった。入学したばかりで飲み慣れていない何人かが、みっともなく酔っ払っては手当たり次第に管を巻き始めていた。俺たちはそれを遠巻きに眺めながら移動していたが、その内の男が一人、団体の中程をしっかりとした足取りで歩いていた誰かに、盛大に絡み始めた。
絡まれた相手は、酔っ払っいの下らない冗談を適当に受け流しつつ、当たり障りのない距離感を保っていた。コンビニの照明に浮かんだ姿が、予想を反してそういう相手には容赦の無さそうなタイプの女だったから少しだけ興味を持ってしまったのだ。
飲み会の時には席が遠くて顔までは見なかったが、声は知り合いに似ていたから覚えていた。決して自分の話題は出さないものの、他人の話を引き出すのが上手いと、少し離れた席で思っていた相手だ。そして、後ろ姿だけでも惹かれるような何かが間違いなくあった。
後ろ姿しか見えなかったけれど、男の絡み方から察するに、整った容姿の女なんだな、と辺りをつけた。なぜならしつこくアドレスと電話番号を彼女から聞き出し始めたからだ。
男から見ると凶器になりそうなヒールの靴。酒を飲んだのにそんな靴でしっかり歩くなんて信じられないな、と三郎と笑いながら歩いていたら、とうとう男が厄介な行動に出始めた。
「大丈夫かな、あの子。」
心配そうな雷蔵の声に、下卑た笑いを収めて眺めたら、手首を捕まれた彼女が態度をあからさまに硬化させていた。そういうあしらいになれていそうなのに、潔癖そうなところも好みだな、と思った。そんな馬鹿な考えはともかく、相手が嫌がっても意に介さないのが酔っ払いの為せる技で。
いい加減誰かが止めに入らないとまずいな、と誰もが思い始めていた。周囲の他の女たちも心配そうに彼女を見ているものの、男は体格が良くて近づきずらい上、相手になっている彼女自身が友人たちに来ないように言っているらしく、もうどうしようもなかった。
俺は他学部だし、今しゃしゃり出てもしこりが残らない。面倒に思わないでもなかったけれど、彼女には興味が出ていたから、いいかな、と思った。印象付けておくのに悪い手ではない。そんな矢先だった。
「あーあ。俺らの中で一番行くべきじゃないやつが行ったわ。」
三郎が言葉とは裏腹に楽しそうにのたまうと、今まで俺の隣にいたはずのハチが酔っ払いと彼女の間に入っていた。
スローモーションみたいに二人が写っていた。少し恥ずかしそうにお礼を言う夏帆の姿と、彼女を真正面から見て表情を無くした能面みたいなハチの姿。
ハチはハチで、どのみち出会っていたにせよ、亡くなった彼女の面影がある女に会ってしまったのだから、気の毒と言えるのかもしれない。脳裏に刻まれたあの表情。多分、夏帆を認識した瞬間にハチはどこかだけ巻き戻されて、何かを置いてきたんだと思う。
単純に考えたら、ありきたりだけど、劇的な出会い方。俺たち四人以外は誰もがそう思うような場面だった。でも、そんな二人は今では破綻どころか狂いまくった付き合いしかしなくなった。始まりから片方は沈んでいて、もう片方が理解しながらもそれに合わせた結果だと思えば幸せなのかもしれないが。
夏帆は、誰とでも当たり障りなく付き合えるタイプだった。話題も豊富だし、話し方に嫌味もない。確かに周囲より綺麗な顔立ちかもしれないけどサバサバしていて、同性票も高かった。けれど、お似合いだと言われ、順調に続くんだと思われたハチとの関係で、夏帆は多くを犠牲にすることになった。
周囲の同性からの妬み、僻み、軽蔑、好奇の視線。それでも、夏帆はハチから離れようともしない。俺が彼女を抱いていても、見ようともしない頑なさと同じように。俺たちは一緒にいても夏帆はただ、ひっついて離れようとしないだけで自分からは何もしない。ここがどこかわからないまま居ついてしまったような。
まるで一人だけで海底に残された深海魚のような。そんな、夏帆の姿を見てると、安心する俺は大概醜い。わかってるからもう、そんなことはどうでもいいんだけど。