3 光の届かない世界、を体現する。
海に沈む夢を見た。



彼女が笑顔のまま、ずぶずぶと深く落ちていく姿をただ見ていた。



その足に重い珊瑚を括りつけて、二度と浮きあがる事のないようにできたらいいのに。





「ねぇ、夏帆は泣いたりしないの?」
「泣くよ。悲しいときとか。」



そういって無遠慮に指差した方角にはハチがいた。院の先輩と笑顔で資料の検討をしている。真面目な研究内容の討議だと言うのに、それでもベタベタとハチの腕に絡まりつくような先輩の腕は、爬虫類のようにくねっている。



「骨の無い女。」



楽しそうにそう呟くと、また目の前に置いてある無印のらくがき帳にバカみたいな落書きを始めた。



夏帆は、陳腐な言い方をするならば、ある時を境に変わってしまった。長い髪も、持て余し気味の綺麗な脚も、優しい笑顔もそのまま持ちこして。



「用事あるから行くね。」
「うん、また明日。」



誰も、止めない。彼女が何をしに誰とどこへ行こうと、誰も止めはしない。おそらく彼女は沈めてしまったのだ。幸せになれたはずの自分に錨を巻きつけて、投げ入れたとしか思えない。わざわざ真っ暗な海底に重し付きで飛び込む人間がどこにいる。



そう思いたいのは僕が彼女の友人である前にハチの友人だからだろう。実際、彼女の折れそうな体に重りを投げつけたのはハチだった。彼女は受け止められないまま沈むしかなかった。投げつけられたことにも気づかずに、気づいた時には笑顔で、彼女はそれを引き受けていた。



自分を守るために息もできず光も見えない場所を選んだ彼女を、ハチは何を考えて離さないんだろうか。



「夏帆は?」
「約束だって。」
「そっか。」



いつもの人好きのする笑顔でやってきたハチは、何の追求もしないし、疑問を持っても顔には出さない。少しは自分の犯した間違いに縛られているんだろうか。この善人面した男がしでかした間違いに。



その間違いに彼女は、耐えられなかったのだけれど。



『知ってたの?』



あの時の、彼女の冷めきった顔を僕も三郎も、恐らく兵助も忘れられないに違いない。みんな知っていた、みんなで騙していた。僕らは彼女を使って、ハチを幸せにしたかっただけだった。



「兵助のとこか。」
「ハチ、」
「いや、今日はあいつバイトか。」
「あのさ、」
「ん、なに?」



お前おかしいよ、そう言ってあげられるなら、夏帆は前みたいに笑ってくれるんだろうか。でも、そんなことに意味がないのは彼女が一番知っている。そして僕らに言われてもなにも嬉しくないだろう。



彼女は静かに変えられてしまった。多分細胞レベルで表には決して見えなくて。そしてハチは、自分が錨を巻きつけていることにすら気づけないでいるままだ。だからいつまでも、夏帆は呼吸が出来ない。ハチは夏帆の苦しみに気づかない。



すれ違うことのないすれ違いなんてあっていいんだろうか。



「なぁ雷蔵、夏帆に電話したら出ると思うか?」



海底みたいな寒々しい場所、彼女には似合わないって頼むから早く気づいてくれないか。



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