自分が心地よく感じ、好感を覚えるもの。人は単純だから、それを正しいと判断しやすい。
けれどそれにも関わらず、例外に逆を求めてしまうこともある。
何が言いたいかと言うと、自分を好きになってはくれない相手であっても、自分が好きだと感じれば、与えられる苦さも辛さにも親しみを持たずにはいられない、と言うことだ。
気がつけば隣にいた。
彼女は小さなことで怒ったり笑ったり俯いたり、感情の波が激しかった。けれど、それをみっともないと思うようなことはなかった。ただ少しだけ側にいて怖かったことは、その揺れて流れるような感情に、自分まで飲み込まれるような浮いた感覚を味わうことだった。
手に入れたいと願ったことは、何度もある。お互いを補完しあって育った俺たちは、隣にいることが当然だった。自分と正反対の彼女がいつまでも隣にいればいいと。そんな醜い感情さえ、彼女のために持てるなら綺麗に思えた。
ハチに嫉妬したことは、ない。
嫉妬なんて言葉じゃ足りるわけがなかった。そんな自分を認めたくなくて、いつからか二人を見ても想うことを止めた。
彼女が選んだ相手は俺とどこが違うんだろう。俺には何が足りないんだろう。彼は彼女に何を与えたんだろう。考えてもわからなかった。
ただ彼女と正反対の俺は、揺れて流れても汚いばかりで、その事実をいつまでも突きつける二人とは、別の種類の人間だと理解するようになった。
夏帆はあちら側の人間だと、会った瞬間にわかった。俺が本能的に求めてしまう相手であり、そして必ず手に入れられない存在だと言うことも。
何も知らずに、俺たちに笑いかける夏帆といるのはとても楽で、それでいて可笑しかった。どうしてハチが自分を選んだのかを知らない夏帆。想われていると疑わない、そんな彼女を見ては憐れむ自分に、バランスを求めた。
傷つけたいと思ったのはいつだろう。俺と同じ立場に引きずり込んでやろうと言う考えが浮かんだのは。一度思えば止まらなかった。俺は徹底して汚い側にしか立てない人間なのだと、ようやく悟りもした。
だけど全てを知っても、傷ついても、受け入れることを選んだ夏帆は、どう足掻いても俺とは違う人間だった。逃げずに誰かを真っ直ぐに好きで居続ける、そんな強さを持っていた。
どうして優しく出来なかったんだろう。好きなのに傷つけるだけ傷つけたんだろう。見守ることに安らぎを見出だせなかったんだろう。つけこんで出し抜いて、彼女に優しくすることを許された俺は、ここまで狡くなる必要があったんだろうか。
そのことに関して、後悔しているかと問われた時、俺はなんて答えればいいんだろうか。
「久々知くん?」
「え?」
「ボーッとしてる。判例探しって大変なんでしょう?自販でいいなら何か買ってこようか。」
「あー、じゃあコーヒー。」
「ブラック?」
「ん、頼む。」
斜め前で夏帆が両手にファイルを抱えて笑っていた。模擬裁の準備に終われながらも、不意に頭に入り込むのは夏帆のことだった。彼女は、曖昧な記憶に時々翻弄されながらも、彼女らしく立ち回って生活している。懸命だけどスマートにこなして、そして以前の曇りのない笑顔を自然と振り撒くようになってからは、周囲を緩和させた。そうだ、最初の頃のように、誰からも好かれる夏帆になった。
けれど、この状況を本当に受け入れているのかまではわからない。
夏帆はハチだけをずっと見ていたかったんじゃないだろうか。そしてそれを、俺も三郎も雷蔵も、どこかで望んでいたんじゃないだろうか。
「研究室でもらったクッキーあげる。」
こんな、誰にでも笑顔を向けるような彼女を、少なくとも今の俺は望んでいない。あんなに、欲しかったのに。
「その山は何?」
「これ?進めてきた研究のデータとか、参考になる過去の実験記録。」
「これは?」
ふと目に留まったA4の封筒。乱雑なファイルの山の中で、一つだけ俺の視線を引いた。無言で引き抜くと、ある程度予想はしていたものの、思わず彼女を睨み付けるように見つめてしまった。
「何これ。」
穏やかに微笑みながらなんてことないように、封筒を取り返される。
彼女を求めていたのは本当だ。夏帆を大切に思っていたのも嘘じゃない。素直に好きだと言えないだけで、何もかも上手くいかなかった。
ただ人を想うだけなのに、どうして俺は不器用なんだろうか。でも、もし傲慢が許されるなら、今度は夏帆に優しさだけをあげたい。夏帆を大切に想うだけで満たされていたい。
だからハチから離れようなんて、例え記憶がなくても本心ではない選択を、するべきじゃない。
「夏帆、本気か?」
ハチと笑いあっている姿を見せて欲しい。好きだから、笑顔を見たいと思うから。
「院は、外部を受ける。」
今さら優しくすることを、どうか許して欲しい。