今日と明日と明後日を生きればいい。毎日そう思い続ければいい。
冷たい頬に触れた時、そう誓った。
誰かが死ぬ限り、残される誰かも生まれる。そんなことは、頭の中に早々に入っていった。それでも彼女が死ななかったら、俺の隣で今も笑いかけてくれたら?この願いは、どうやっても消せない。だけど現実を生きるには、どうしようもない誘惑を振り切り生きるには、力がいる。けれど俺は、現実から目を背けた。つまりそこには救いの欠片もない。
今日も明日も明後日も、分からない日常にしてしまえばいい。
彼女を海に撒いた時、俺はそう願った。自分を光の届かない真っ暗な海に沈めてしまえば、きっと感情すら消せると信じて。誓いは呆れた願望に、容易くのまれてしまった。
手術中のランプが消えても、俺の頭の中で光に奪われる前の、夏帆の穏やかな表情が消える素振りも、見えない。
こんな結末を、望んでいたわけじゃない。
人は人を慰めることなんてできない。それでも人しか人を救えない。身代わりを求めていたのは、意識的だった。夏帆に会えば彼女に会えると、信じたかった。中途半端に喪ってしまった相手ほど、想わずにはいられない。その先を描いては消えてくれない。
それでも、そうだとしても、許されていいはずだろう?もし人の生涯に幸不幸の秤の存在があるとしたら、俺の選択に異議なんて唱えられないに決まっている。自分以上の相手を失った俺が、残像を求めるなんて自然の流れ。そんな行動が咎められるわけないと、馬鹿みたいに高を括っていた。誰を傷つけても許されると、思っていた。許して欲しいと。
これ以上のどん底なんて、存在しない。してはいけない。深海はここのはずだ。
「ハチ。」
また。あの時を思い出す声がする。心配を通り越して、恐怖すら抱いている雷蔵の声。
彼女を失った時、わかりやすく精神の均衡でも崩せればよかったのかもしれない。でも俺は、そんな半端な状態に自分を追い込めなかった。ただ毎日を消化することに集中した。でもそこに感情はなかった。俺から一切の情動が消えた。彼女のいない毎日に、何かを感じ取るなんていらないと思ったら、綺麗になくなってしまった。
嘘だと思うだろ?
そんな人形みたいな俺を見て、三郎は顔を歪めるようになった。しまいには、彼女なんて最初からいなければよかったと、出会わなければよかったと、泣きそうになりながら呟いていた。
そうなのかもしれない。たった一人のために全てを犠牲にしても構わないと思うくらいなら。そんな相手を見つけては、いけないのかもしれない。見つけてしまったから、罰を受けたのかもしれない。
勿体無いほどの出来た友人たちを、俺は散々振り回して、何気ないことで傷つけてばかりいた。一緒にいても笑いもしない俺を、見捨てなかったあいつらこそ、何より大切にすべきなのに。俺は今でも変われないままだ。
ベッドに横たわっている夏帆は、いつもと変わらないように綺麗だった。管や機械に囲まれていなければ、握りしめている手に力が入ってくれれば、いつもの、彼女だ。
「夏帆の家族に連絡しておいた。」
いつも冷静な兵助の、少しだけ上擦って掠れた声が、現実を語っていた。
『俺の幼馴染み』
五年前の春、何の意図もなく紹介してきた兵助の横で、笑った彼女を見ていた。
俺でなくとも、会った奴なら誰もが認めたと思う。彼女には求心力があったと。人を惹き付けて止まない何かを、自然と手に入れている人間がいると、初めて知った。
そんな彼女が欲しいと即物的に感じた。
三郎と雷蔵も、すぐに彼女と打ち解けた。女らしいのにそれを感じさせない彼女は、俺たち四人の中にいても何の違和感もなかった。毎日五人で馬鹿ばかりやらかした。些細なことで泣くまで大笑いして、小さなことで果てしない喧嘩までした。
五人でいることが当たり前だった。臆病な俺はその関係を壊すことに躊躇って、気がつくとお互いを見ている彼女に、何の言葉もかけられなかった。夏に訪れた彼女の誕生日。何が欲しいといつもの調子で尋ねれば、竹谷くんの隣が欲しい、と笑顔で言われた。それ以来、俺の側にはいつも彼女がいた。
三年前の冬、突然彼女を失うまで。
正直な話、たった一人の相手を想い続ける自信なんて、なかった。なかった上にそんな自信が湧いたらのしつけて誰かに放り投げたかった。そんな稀な感情、縛られる動機を抱えることは嬉しい反面恐ろしいと思っていたし、相手にも重たいはずだ。
それすら、彼女が死んだことで許されてしまった。大袈裟に言えば、俺は彼女を一生想い続けても、非難されない立場を手に入れてしまった。それが俺には嬉しいと同時に、怖くもあった。
『本当にありがとう。』
そして三年前の春、夏帆に出会った。
出会ってしまった。
俺は、夏帆に惹かれた理由を、彼女に似ているからだと思い込みたかった。誰かを想うことの辛さを、味わうのはもう嫌だった。彼女だけを想い続ければ。二度と辛い想いなんて。
それでも夏帆には俺を好きになってもらいたかった。俺よりもっとずっと傷ついても、俺だけを見ていて欲しかった。
ああそうだ。好きになってもらいたいと、そう思った瞬間から、俺は彼女を。
ちゃんと、きちんと。
「あ、」
俺の手の中で、彼女の細い指が動いた。彼女の綺麗な瞳が、光を少しずつ受け入れていた。
頼むから、もう一度浮かんできてくれ。何も望まないから。これ以上、我儘なんて押し付けないから。
「夏帆……?」
ここがどこだかわからない、そんなさ迷っている瞳が、俺を射止めた。柔らかく笑って、そしてもう一度瞬きをして。
「だれ……?」
好きだ。ちゃんと、きちんと、夏帆だけを好きだ。
遅くなって、ごめんな。