微笑みの爆弾
正直に言う。俺にとって体育倉庫は鬼門に近い。いやもっと言ってしまえば、学園一好き勝手なんでもやりたい放題、自由すぎて対処に負えない規格外だこの野郎、と罵られてきた俺が、唯一苦手に思う場所。それが放課後の体育倉庫だ。例え好き好んで行かない場所でも、備品の返却に行かなくてはならない。全く時の運と籤とは恐ろしいものだ。
「すんませーん、体育倉庫の備品返しに来ました、ちなみにバレーボールでーす。」
「はーい、ちょっと待っててくださいね。」
一応緊張しつつ直立不動で待っては見るものの、姿は見えないが奥から聞こえる返事は、おそらく二年生の四郎兵衛のものだろう。これで一安心だ。
「こんにちは鉢屋先輩。ちなみに何個ありますか?」
「えーっと、三個、かな。」
「はい、確認しました。ご苦労様です。」
二年の四郎兵衛はいつも笑顔で癒されるし、は組の次くらいに可愛げがあると思う。学園の生徒たちは親元を離れているせいか、学年が上がるにつれて素直さ、とか純粋さ、とかが失われていくけど、こいつはまだまだ可愛らしい。元来下級生はこうあるべきだ。
「しろべーは今日もにこにこしてんなぁ、元気か?」
「はーい、元気ですよ。」
「それはけっこう。今日の当番はしろべーだけなのか?」
「いいえー、今日は志乃先輩と僕です。」
ぴしり。
俺の周囲の空気が冷え固まっていくのがわかる。その名前を聞いた瞬間、俺は心の中では全速力、四郎兵衛の手前、優雅に歩いて体育倉庫から名誉ある撤退を図ろうとした。とりあえず何も考えずに。
「こんにちは鉢屋くん。帰る前にこちらの管理票にサインをお願いします。」
鈴のような声で、百合のような見た目で、数々の人間を騙してきた魔王の如きくノ一。俺にとっての鬼門、結城志乃が目の前に現れた。その現実だけで俺の体力は根こそぎ奪われ、精神力は底をつく。さっき四郎兵衛に癒されたばかりなのに、なぜここまで疲労値が鰻登りで急上昇するのだろうか。
「あぁ結城、サインね、サイン。」
心臓は早鐘、脈拍は針を振りきり、呼吸は乱れ(普通はこの状態を恋に落ちる、という)、俺の頭の中はいつかの光景が錯綜している。どうして結城が当番のときに限って体育倉庫に来てしまったのだろうか。最早陰謀としか思えない。しかしここは鉢屋三郎、他人の目を欺むくことに関しては他に追随を許してはならない。平常心、平常心と心の中で唱えつつミミズが這うような字を書きあげた。
「どうもありがとう。」
にこり。
あぁ、この微笑み。微笑んだまま人を叩きのめしていくやつを俺は知っている。楽しそうに跳ねるように他人を追い詰めていくやつを、俺は覚えている。微笑んだこの顔が、俺にとっては一番恐ろしいのだった。もし、それを今でも覚えていて効果的に使っているとしたら、魔王ではない、鬼畜だ外道だ。あぁ、どうして思い出してしまったのだろうか。古傷が痛むではないか。あの恐ろしい一連の不幸がこの身に降り注いだのは俺が三年の秋のことだ。
***
当時から、俺は他人に変装して相手を驚かせたり、からかったり悪戯をしかけることに熱中していた。幼かった分、あまり迷惑などを考えずに面白ければそれでいいや、と冗談半分で気楽に動き回っていたところがあり、ばれた後、こっぴどくしかられたことも一度や二度ではなかった。しかし、人が驚いたときにみせる行動や表情に魅力を感じていた俺が、やめることはなかった。
その日、俺は朝から一人のくノ一に変装し、多少悪意のこもった悪戯を仕掛け回っていた。自分が変装して仲の良い者同士を仲違いさせたり、喧嘩に追い込んだりと普段はしないようなことまで試していたのだ。
「ほんと、手裏剣一つ上手く扱えないなんて、才能ないんじゃないのー?くノ一やめたらー?」
「ひどい…どうしてそんなこと言うの?いつもは励まして教えてくれたじゃない。」
「そんなのふりに決まってるでしょ。もう教えるの飽きたの、明日から話しかけてこないで。」
これで七人目。女の友情なんて儚いもんだよなぁ、とにやにや笑いながらくノ一長屋を歩いていた俺は、とうとう変装していた本人と鉢合せすることとなる。
「あんた三年の鉢屋三郎でしょう!?私に変装してよくもやりたい放題やってくれたわね、おかげで何人怒らせり泣かせたと思ってんの…今から一緒に説明しにいってもらうわよ。」
「あーあ、ばれやがった。つまんねーの。」
「なんの恨みがあってこんなことしたのよ!!」
「別に、ただ今日最初に見かけたくノ一があんただったから。」
「信じられない、仲良くしていた友達に泣きつかれる気持ち、あんたにわかる?ほんっとに最低。」
「その程度のご友情だったということで、諦めたら?」
悔しそうに涙を浮かべるくノ一を見て、正直俺は自分の変装の才能に酔っていた。他人になり済まして誰かの一生を狂わせていくのが快感になっていたことも否めない。やりすぎていたとか、そういう常識をその場では持ち合わせていなかったのかもしれない。まさに天狗だ。いますぐ過去に戻ってその鼻を圧し折ってやりたいし、後ろ斜め三十度からの視線に気づけと耳元で囁いてやりたかった。そう、気を抜きすぎていた俺は、その場で放たれた殺気に反応するのが出遅れてしまっていたのだ。
腹にもろに衝撃を受けたと理解した時には、仰向けのまま廊下に素っ転んでいた。まさか隠れていたくノ一が全速力で飛び蹴りを食らわせてくるなんて、誰が予想していただろうか。予想していないことにも反応するのが忍者なんですけども…
「…って、」
「君、痛覚とかあるんだね。」
微笑みながら俺に向って手を差し伸べたのは、やたらと整った顔立ちのくノ一だった。その笑顔に気を許して思わずひっぱりあげてもらえば、微笑んだまま、彼女は上から下まで俺を検分しながら、今思い返すと狙いを定めていた。
「じゃあ、次はここがいいかな。」
腹の次は上段を狙った蹴り、寸でで俺がかわしたかと思うと笑顔で舌打ちしながら間合いで追い詰めつつ、かかと落とし、そのまま回し蹴りと連続で放ってきた。
「うぉっ!!」
「残念ながら今暗器を持ってないから、さっくりはいけないけど。時間をかけて付き合ってあげるね。」
「お、お前いきなり出てきてなにするっ…」
「その言葉そっくりそのまま返してあげるけど。ほんと何様?私の友達たくさん泣かせといて、理由にもならない反論したって話にならないよね。」
言ってることには棘があるくせに、本人の表情が笑顔で表情も穏やかなことに一番恐怖感を抱いた。こんな人形みたいな女に、よりによってこんな風に追い詰められることは初めてだった。底知れない怖さというのはこういうことを言うのか?ほんと、みんな一度は日本人形に追い詰められてみればいい。
結局俺は、何の反撃もできないまま(今思い返せば最初に腹を蹴られたときに肋骨を何本かやられて動きようがなかったのだとう思う。いや、そう思いたい…)膝を折ってしまった。完全な敗北だった。動けなくなった俺の前に、それはもう楽しそうに悪魔がちょこんとしゃがみこんだ。
「反省しましょうね。」
「はい。」
「はい。じゃ、みんなれんこーしてー、れんこー、れんこー。」
彼女がぱんぱんと手を打つと、待ち構えていたかのように大勢のくノ一が現れた。
本当の恐怖はこれからだった。くノ一の恐ろしさを俺はすっかり忘れていたのだった。その日俺が悪戯をして回った全員の元に謝罪に行かされたのち、制裁という名のフルボッコにあい、先生方に付き出され謹慎を食らうという天才が呆れる処遇に合い、初めてこの世の憂き目というものを感じさせられたのだった。源氏でいうなら明石での流浪だ。流浪。俺は十二歳という若さで人生に彷徨うこととなったのだ。
あぁ、どうして思いだしてしまったのだろうか。あの後、たまたま食堂で再会したとき、腹の中のものを逆流させそうになったことがある。その時に結城志乃という名前を知ることとなるのだが。それ以来とりあえず、結城に会うたびに思わず鳩尾を手で守ってしまうというおかしな癖がついたのは間違いない。けれどあの日からまじめに体術を練習するようになったこともあり、悪いだけの思い出ではないのだが…しかし悪夢に違いはない。あぁ、それにしても腹が、腹が痛い…
***
「鉢屋先輩、お腹さすってましたけど…調子でも悪いんでしょうかね。」
「え、お腹すいてるのかと思ってたよ。」
「あ、きっとそうですね。」
「なんだか疲れてるみたいだったから、少しでも元気が出るように笑顔で対応したんだけどなぁ。お腹は満たしてあげれないしね。」
「今度いらしたときにも、笑顔で出迎えてあげればいいじゃないですかー。」
「そうだよね、頼むほうも頼まれたほうも笑顔のほうが気分がいいしね。」
「そうですよー。」
*もちろん、無自覚でキレた主人公は自分が叩きのめした相手をうろ覚えです。鉢屋はこの後、いままで天才だからの一言でのらくらやってきた授業も真面目に出るようになりました。
「鉢屋、お前ようやく自分の才能に気づいたんだな!!こんなに真面目に授業に…先生は嬉しいぞ!!」
「いやー、体術の重要性を身をもって感じたんですよー、あはははははは…」
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