▼ ◇チャコールグレーの誘惑(氷室)
東北の冬の寒さを甘く見ていた。
「おはよう辰也くん。」
「…おはよう、」
「声まで寒そうだけど、大丈夫?」
「正直、大丈夫じゃない。」
何を着てもいくら着込んでも、全く暖かくならない。寒いとかのレベルじゃなく、風が吹く度に痛みを感じる。コートを着てマフラーにグローブまで、やれることはすべてやっているのにまだ足りない。ロサンゼルスの、西海岸のあの温暖で過ごしやすい気候が今は恋しい。
「年が明けたらもっと寒くなるよ?」
「…Really?」
これ以上寒くなったら俺は生き抜けない気がする。あからさまに落ち込む俺を、慣れだよ慣れ、と苦笑しながら励ましてくれる彼女の笑顔だけが温かい。一週間に一日の朝練休みの日、唯一一緒に登校できる貴重な朝は彼女が寮まで俺を迎えに来てくれるのが恒例になっていた。
「でも、天気予報でも言ってたけど今日は一段と寒いって。」
「朝ベッドから出るのが辛かった。」
「私も。諦めてタイツにしちゃった。」
「タイツ?」
言われてみれば、さっきからずっと何か違和感を感じていた。信号待ちのために歩みを止めた瞬間、少しだけ離れて彼女をまじまじと見詰めた。
「昨日まではネイビーのハイソックスだったね。」
「そろそろ生足はキツイなって。足元スースーしちゃって。」
昨日まで膝上の短めのスカートにハイソックスと言う、見ていて俺が寒さを感じるほどの薄着をしていた彼女が、今日は脚を全て覆っている。改めてみると凄いギャップを感じる。昨日までは晒されていたものが今日は隠されている。それだけで視線を外せなくなるのは、朝から俺が沸いてるだけなのか。
「一度履いちゃうと、戻れなくなるんだよね。まだ冬は長いのにな。」
「無理をして風邪を引くよりいいじゃないか。」
「でも、制服にタイツって見慣れないでしょう?変じゃない?」
…ここで俺が『変じゃない』と言い切ったところで、彼女はその言葉通りに受け取ってくれるだろう。俺の頭の中がどういう矢印を伸ばしてその答えを吐き出すに至ったか、そこまで考えることはないはずだ。
「見慣れないだけで、変じゃないと思うよ。」
「そう?良かった。」
「冬になるとタイツっていうのは当たり前のことなのかな。」
「東北なら、そうだと思うけど。中には頑張ってずっと生足の子もいるけどね。」
「それは…逞しいな。」
「クラスの女の子たちも徐々にタイツ派が増えてくると思うよ。」
クラスの学校の周囲の女の子たちがタイツになったところで何の問題もない。俺が心配になるのは彼女が関わる時だけだ。LAの陽気の中で、タイツを身に着けるような女性は中々見掛けなかった。だからだ、俺に耐性がないのは。
陸上で鍛えてスラッと真っ直ぐに伸びた脚が、ただ全て覆われているだけなのに。いつも以上に細く見えるせいか、良い意味で心許なく目が離せなくなる。
「辰也くん?」
「ごめん。寒くて少しボーっとしてた。」
「大丈夫?」
優しい彼女は気遣わし気に俺の頬を両手で包んでくれる。俺は邪な考えばかり浮かばせていたっていうのに。
「辰也くんには少し子供っぽいかもしれないけど…耳あてか帽子かあった方がいいかもね。」
今度探しに行こうか、そう言っていつも通り笑ってくれる彼女に良心が少しだけ痛んだ。
***
何日経っても何回見ても見慣れるどころか危ない妄想しか生み出さない俺の頭。毎日身体を動かし続けてムダな煩悩をクリアにしているつもりが、それこそムダな努力に終わっている。
脚を全て覆っていると言う安心感があるせいか、最近の彼女の隙の見せ方が不安でしょうがない。しっかりしている彼女にしては少し気を抜いているんじゃないかと物申したくなるくらいだ。俺は声高に叫びたい、履いているからって見えないわけじゃないんだ、と。むしろたいして厚くもないタイツで隠せるものなんて多くないんだと。
ほらまただ。脚立を使って本を戻そうとする時に、どうしてそんなにあっさりと上るんだろう。他の男だってたくさんいる学校の図書室なのに。
「辰也くん、この本とこっちの図録が使えると思うよ。」
「ありがとう、泉。」
もちろん、それが俺のレポートのためにしてくれてることだっていうのは百も承知だ。笑顔で説明してくれる彼女がいるのに、俺のこの考えが狭量だっていうことも理解してる。
それでも嫌なものは嫌で、俺が勝手に心配になるのだって…しょうがないよな?
「図録を向かいの席で見るのって無理があったね。」
そう言って彼女が躊躇いなく俺の隣に座ると、短いスカートから覗く脚の面積ばかりが増えていく。こういうところがとても好きで、同じくらいイライラしてしょうがない。少しだけ、困らせてみようと思ったのはいつも俺ばかりハラハラさせられることへの意趣返しだった。
「ねぇ、これは何の場面?」
「これは柏木が女三の宮が可愛がっていた飼い猫、を、…」
「飼い猫を?」
「辰也くん、」
「なに?続けてよ、泉。」
「柏木は、せめて飼い猫だけでも自分の手元に置いておきたいと考えて…」
「その気持ち、わかるな。」
「辰也くん、手、」
「ん?」
「脚から手を、」
どけてくれないかな、と顔を真っ赤にさせて恥ずかしそうに耳元で囁いてくる彼女がとにかく可愛くて、俺の中でしばらく治まっていた嗜虐心に火がついてしまいそうだった。
「こんなに惜しげもなく披露してるのに?」
図書室の机の下、そんな誰にも見られない場所で彼女の太ももの上を撫でる様に触れていた。少しずつ、少しずつ上に向かって進めて行けば彼女の顔が徐々に血の気を失っていく。彼女は今、俺の真意を量り損ねているし、純粋に恐怖を感じているかもしれない。
「だめ。」
俺の手首を両手でギュッと掴む彼女のその手が震えていて、もうそれすら俺の口角を上げていく材料にしかならない。
もうこれは勉強どころじゃない、そう思って俺は彼女を連れて放課後の図書室を出た。
***
「何か怒らせた?」
「どうして?」
「だって、何だか普段と様子が違って見えたから。」
「泉は俺を怒らせるようなことをしたっていう自覚があるの?」
「辰也くん。今日は随分意地悪言うんだね。」
言って貰えないとわからないよ、と困り顔の彼女が雪道をサクサクと歩いて行く。いつもより、二人の間隔が大きいのはそのまま彼女の不安の表れだろう。帰り道の寒さで少し頭が冷静になったけど、確かに付き合っているとはいえ突然あんなことをされたら距離をとりたくもなるだろう。きちんとしている彼女なら、なおさら。
「最近、少し無防備過ぎないか。」
「無防備って、私が?どこ?全然自覚ない…」「そう言うと思ったんだ。例えばその脚。」
「脚っていうけど、タイツ履いてるからむしろ夏よりも危なくないと思う。」
「隠しているから、前より大胆に動くようになったと思う。」
「自分じゃわからないな…でも、前はスカートの中にショートパンツを履いてるとは言え、見えないように気をつけてたかも。」
「頼むから冬になっても気をつけてくれないかな。」
「辰也くんはもっと凄いものたくさん見てるだろうからあまり気にしないのかと。」
「泉は俺のことなんだと思ってるんだよ。」
ごめんね、と笑う彼女の手を取ってコートのポケットに隠してしまう。斜め下に見える彼女の少し困ったままの表情は、いつもより子供っぽい。
「そんなに心配されてるとは思いませんでした。」
「泉じゃなかったらこんなに心配しないから。」
「そうなの?辰也くんて女の子なら誰にでも優しくするのかと思ってた。」
「だから、俺のことなんだと思ってるんだよ…」
***
「あ、室ちんの彼女だー。」
寒空の下で、アツシののんびりとした声が通った。
着替えを終えて体育館前でたむろしていると、こちらに向かって一人の女子生徒が歩いてくるのがわかった。コートの上にマフラーを巻いているせいか、はっきりと顔は見えないものの、何度か話したことがあるアツシには直ぐわかったらしい。
「え、氷室の彼女ってあの子か!」
「福井サン知らなかったの?」
「陸部の子ってのは聞いてたけどな。あ、でもこないだ寮の前で挨拶されたわ。」
朝練が休みの日に、珍しく少し早めに学校へ向かおうとしたら寮の門の前で見知らぬ生徒が立っていた。どこかで見た顔なんだよな、と不躾にじーっと見ていたらおはようございます、と礼儀正しく返されたことを思い出す。
「室ちんのお迎えかな?それにしてもあんなめんどくさい相手と良く付き合うなぁ。」
「たしか氷室、この間も彼女が無防備でどーたらこーたらうるさかったよな。」
「ほんとそうだ、よねって」
「「あ。」」
今日は日中気温が上がって積もっていた雪もそれなりに溶けた。それが夕方からの冷え込みで凍り始めたから歩くのも少し慎重になる。氷室の大好きな彼女もゆっくり気をつけて歩いていたはずが、ものの見事に、滑った。
「おい大丈夫か?ケガは?」
「だ、大丈夫です…」
「頭は打ってないよな、ほら手。」
「すみま「福井さん?」
目の前で転んだ相手を放っておくほど俺は鬼じゃない。だから常識的に考えて俺は悪くない。彼女のことになると周りが見えなくなる氷室が悪い。絶対悪い。助けるために伸ばした相手の手を払うヤツがどこにいるんだよどこに。
「俺の彼女がお世話になりました。」
「お、おう…」
「待って辰也くん、あの、ありがとうございました!」
そのまま何も言わずに手を取って彼女を連れて行く氷室と、申し訳なさそうにこっちに頭を下げる彼女の対比にため息が出た。この独占欲剥き出しの感じは、大変だろうなぁ。
「ほんとめんどいなー。」
「福井サン、お疲れ様。」
後日、改めてお礼にきた彼女と、その後ろで後輩にも関わらず俺を睨みつけてくる氷室の違いに改めてため息を吐き、頼むからこの一見そうは見えない猛獣の手綱をしっかり握っといてくれよと心の中で祈っておいた。
※前の二つの続き。多分手綱はもう握られてる感じです。
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