暑さ寒さも彼岸まで、とはよく祖母から聞かされていたが。もう彼岸の入りだというのにこの暑気は衰えず。伝え通りに残暑が遠のくことはない。これも時代の変化と温暖化かと、いづみは汗の浮く首裏にひっついた髪を指で絡めとる。

「まだまだ暑いなあ、」

仕分けを切りの良いところで終え、小鼻から息を吐き出し立ち上がる。溜め息ではなく、単に扇風機のみの熱風に耐えかねて。昔ながらの家屋にエアコンは居間に一台あるものの、祖母が亡くなったあと動かすことはしなかった。この広い屋敷。自分独りのために使っても、と遠慮が知らずのうちに行動へ表れていた。

居間まで戻り、壁掛け時計に視線を移すともう夕刻近い。
山間部の僻地。これから訪客もないだろうと先に汗を流すことにした。
風呂場へ向かって水を張る。昔ながらの構造のためシャワーは愚か、湯の出る蛇口もなく。浴槽に水を溜めてから湯を沸かす。流石に薪で火力調整する程ではないが、この方法が不便ととるか田舎ならではととるかは、心の持ちようだとしみじみと感じた。

『いづみちゃん、ここを捻って沸かしてくれるかい』

小さい頃、祖母がしてくれていた光景を目蓋の裏に思い浮かべると、ズキンと再び。心臓への侵食が進んだ気がした。日常生活のふとした瞬間に祖母の影が追う。慣れようとしてもなかなかに辛い。でも慣れたら慣れたで寂しい。情の移ろいが不安定だ。

(あんまり感傷にひたってたらばあばも安心できない、しっかりしなきゃ)

数十分して湯が沸いた。
特に理由はないけれど、いそいそと風呂支度を進めていく。夕陽の沈む前に入るお風呂は通常と違い、贅沢な特別感があって好きだ。格子窓から見える空は蒼く、ほのかに赤みがかって眺めるだけで気持ちがいい。

「うん、いい香り」

庭に咲いていた菊。初秋に広がる白や黄は祖母の手入れが行き届いていた証だ。頭を垂れそうになっていた花弁をもったいないからと刈った。よく夏場では菊湯、冬場では柚子風呂をしていたことを思い出し、こうして浮かせておいた。そして蓋を取ったら、湯気と混じって香り立つ。嗅覚から蘇る爽やかな記憶に、なんだかほっとした。

(最後だし、こうやって入るのも、ね)

バシャっ、洗面器で掬った湯を頭からかぶる。
この時だけは心を無にして洗い流した。汗だけじゃなく、感傷に引き摺られた鬱憤も全て。明日は作業を終えて都会へ帰るんだ、と心持ちを入れ替えようと何度か湯をかぶった。その勢いは滝行かと自分でも突っ込みを入れそうなほど。

あとはゆっくり、ぼんやりと宙を仰いで湯船に浸かっていく。
愛しい人を哀れむ訳でもなく、未来へ気合を入れる訳でもなく。目と口を半開きにしては腑抜けた面でぼうっと。

人が亡くなると自身のこれまでと重ねることがある。人生の刻限は決まっているのだろうか。岐路とはいつなのだろう。別に今考えたところでどうってことはないけれど。
充満する湯煙にふう、と息を吐いて早々に重苦しい念は取っ払った。大人しく抗わず、川のように流れる時に身を任す。この先も延々と続く日常へ回帰するのだ、と頭の片隅に置いた。そうやって人々は生きてきたのだから。解らない事をあれこれ考えるのは疲れる。真っ黒くこんがらがった思考はくるくる廻る排水溝へと流すことにした。
解放感に溢れている今だけは、難しい理は手放して綺麗さっぱり洗礼されていたかっただけかもしれない。

「ふう、いい湯だった〜」

時間的に少し早い一番風呂を戴いて。と言っても、自分しか入る人はいないのだけれども、それでも心なしか元気が湧いた気がした。







乾かした髪は長いので上で小さくお団子に。湯上りで火照っている体には部屋着用のキャミソールとショートパンツに限る。手荷物を少なくするため比較的面積が狭いものを持ってきて正解だった。なにより自分しかいないので気が楽だ。

いづみは「ああ暑い」うちわを片手にパタパタと仰ぎながら台所へ向かう。
細やかな楽しみとして予め用意していた棒状のフルーツアイスを口に含んだ。

そのまま涼みに縁側へ。ぶらんと両足を垂らしたら、地肌にあたるそよ風が心地よい。
夕空には薄ら茜雲、その遠くで烏がカアカアと鳴く。田舎特有の、時の流れが遅く感じた。都会と同じ秒刻みなのにこんなにも感覚が異なるのは不思議だ。視線の先、広がる庭には様々な草花がまだ生き生きと茂る。祖母もこんな景色を独りで眺めていたのだろうか。──ああ、いけない。ふとした時に、うっかりまた。



「…ごめんくださーい」



親戚でもご近所さんでもない、聞き慣れない声が外から。玄関と庭先の間で響く。もう次の法事まで来客の予定もないし、さっきの昔馴染みが最後だ。全て終えたはずだといづみは訝しみ、知らない声は相手にしなかった。都会で生まれ育った性なのか、不審者には応対しない癖が根っから染みついている。それにもうお風呂入っちゃったし、と潔く居留守を決め込んだ。
いづみは気にせずアイスにぱくっと齧り付く。

「どーも、美味しそうですねぇ、アイス」

…いつの間に。より近くに響く声へと顔を向ければ、庭の脇から人影が視界に入った。
不審者が敷地内に侵入、そして話しかけるという有り得ない事案にハッとして心臓が跳ねる。そして瞬時に事件性も過ぎり。
身に迫る危険に慄いて、目を見開いて、目を、見開いて……。

「え、」

その先の声が出なくなった。問うべき叫ぶべき、返すべき言葉が一瞬にして消えた。

「おやぁ、呼んでくれたんじゃあなかったんスか?」

何を呼んだ? 何も呼んでない。
音が喉を通らなかった理由は、この侵入者に恐怖心を抱いたからではなかった。驚く、という感情よりも真っ先に、さっきまで居た友人との会話が脳裏に浮かぶ。このヒトは、──。

「…時空の、おじさん…」

彼女が見せてくれた記事を読み上げるような、抑揚のない声が溢れでた。

「ええー、前まではアタシの名を呼んでくれたのにそんな急におじさんはないっスよぉ。
……っあ、その前にソレ、垂れてますよ」

ぴちょん、太ももにアイスが落ちた。
「ああっ!」あぶない、せっかくの糖分がもったいないと慌ててアイスの下に吸い付いて、溶けるのを防ぐ。セーフ、と思ったのも束の間。そのまま立ち上がってから気づいた、己の晒している醜態に。
「うわ、」訪客があっても近所のお爺ちゃんお婆ちゃんだろうと高を括ったのが最後。誰かが来たら薄手のパーカーでも羽織れば大丈夫だと思っていたのに。キャミにショーパンという部屋着全開で迎えてしまった。事もあろうか、幼少期の想い出深いヒトを目の前にして。

「あの待ってくだ、私、お風呂上がりたてで…! あっあなたは玄関からどうぞ! すぐっすぐに着替えてきますので…!」
「いやぁーアタシは別にそのままでも構わないんスけどねぇ?」

ずずい、と男は身を近づけ縁側下の石段に足をかけた。
咄嗟にいづみが両掌を彼の正面へ向けて、

「…この縁側から上がらないで玄関からぐるっと回ってください、ゆっくり」

「いいですね?」と念押しすると、「あらら随分とおっかない女性になっちゃって」と苦笑気味に返された。いづみは火照った顔をさらに一層真っ赤にさせながら、ドタバタと奥へ走っていく。

(ああもう、私は…! 気を緩めすぎだ、ばか)

戻って着替えている間、思い返していた。
段々と鮮明に蘇っていく記憶の欠片、そして彼の一寸も変わらない姿。過去に置いてきた思春期の相手とも言えるヒトが、少しの歳も取らないで現れた。
此処はひょっとしてどこか別の場所なのか? と三度目の再会にして出逢う原理を導き出していたが、いづみがこの家に居ながらにして遭遇するのは初めてのことだった。

(でも、なんで…)

何故、彼が此処にいるのか。どうして一体何が起こって、──。
脳内が混沌とした逡巡と情感で喧しい。そもそも彼と出逢うことは裏山に行った時だけではなかったのか? 様々な仮説に答え合わせをするも、起こりうる全てが不可思議で超現実的。正解からは遠い気がする。無い頭を捻ったところで埒があかない。

もしかしたら祖母が亡くなったこと自体、別の場所で起こっていたことにならないか、なんて遂には利己的で空想じみた発想をする始末。ああこれは完全に現実逃避の賜物、ついに自分は幻想を視たのかもしれない。


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