めがね




「ゆかサンどうしたんです? ぼうっとして」

そう声をかけられたのは、口を半開きにして魅入っていたからだと思う。

「あっいや、ちょっと考え事を」

必要もないのに咄嗟に誤魔化した。が、興味の先が疼いてしまって落ち着かない。
いつもの円卓、いつもの和室。だた異なるのはひとつだけ──。

「浦原さん、眼鏡かけるんですね」

対面の彼は厚い専門書へ目を落としながら、

「ええ、ちょっとかけてみました」と呟く。

ふうん、と肯いてからゆかは些細な疑問を抱いた。

「……目が悪いから、という訳ではなく?」
「仮に悪くても治せますから伊達っス」

では何故かけているのか? と首を傾げていると、喜助は薄い眼鏡の隙間から上目を遣い、こちらを見た。
とくん、優しく高鳴る心音。普段と違う見え方に動揺する。

「この間、あなたが眼鏡の男性と話されてたんで」

声を返す間もくれず彼は「それはそれは楽しそうに」と笑む。えっと、あれは、その。脳裏で浮かぶ過去をどう説明すべきか悩ませた。そんなゆかの逡巡へ畳み掛けるように続ける。

「どうっスか、存外いいでしょう」

喜助は細くも武骨な指で眼鏡の横縁に触れた。それを、くい、と上下に動かし整える。彼が意図した人との違いを魅せつけるかのように。
妖しげに訊く声に、ただ「はい」としか答えられなくて。気づいた。──ああ、まんまと嵌められた。

これでは「素敵です」以外のものが浮かばない。肯定する言葉しか。ゆかは思ったとおりを、寧ろ言わされているように感じつつそう告げると、
「ええ。で、他には?」と口角を吊り上げて問われた。

まるで、知ってますよォそんなことは、とでも言いたげな喜助の眼は、僅かに鋭さを孕んでいて口許ほど笑っていない。こちらが素敵だと言うことを最初から解っていた上で、今日の彼を創りあげている、としたら。ようやく理解した、本題はここからなのだと。

「えっと、あの男性は、別部署の同僚でして、仕事帰りにたまたま、」
「そんな、どこの誰なんてアタシは聞いてませんよ?」
「で、ですが……」

他には? と聞かれててっきり。
過去の出来事を答えるよう仕向けられているようで、先手を打って明かしたのだけれど。早まってしまった。こういったとき、何を言えば正解なのか分からない。分からぬまま不正解を導き出して、結局彼のご機嫌を損ねてしまったようだった。

「あれは違うんです、楽しかった訳じゃなくって」

楽しそうに、と言われたので社交辞令のひとつだったことを伝えなければ。彼から疑われているとは思わないが、そこだけでもはっきりさせようとして焦燥に駆られる。

「それはわかってますよォ」

──ああもうどうしたら。

裏目に出てしまったらしい。
戯けたような言葉尻、けれどそこに潜む幽かな違いに私は気付いてしまった。いつも傍に居たが故なのだろうか。どことなく言葉の節々が荒っぽい。結局ゆかは、何を求められているのか理解できぬまま閉口した。

すると、はあ、と呆れたような溜め息を吐かれ。いよいよこの関係も危ういものになったのかとゆかは眼を泳がせた。頭脳明晰で口達者で読心にも長けた人物への弁明となると、正直泣きたい。先程から刺さる冷ややかな声色。何をどう告げても言い返される未来が想像できた。口論や喧嘩とは縁遠い筈だったのだけれど、今はその一歩手前だと思う。込み上げる困惑を堪えて、よく分からないけど謝ってしまおう、と首を垂らした。

「……あー、すいません」

告げようとした謝罪は何故か彼の口から。首裏を掻きながら眼鏡越しの目を伏せている。
呆気にとられて見つめ返すと、喜助は続けた。

「ただ気になっただけで。ましてや泣かせようだとか、そういうつもりじゃない」

気になった、とは。同僚の男が? 眼鏡の具合が? 辟易しきった頭では単純に考えられることも余計にぐるぐると巡ってしまって駄目だ。

喜助は手に持っていた分厚い専門書を円卓へ置くと、改まるように体をこちらに向けて言った。

「さっきのは大人気なかったっス、すみませんでした」

その言葉で、やっと。ああ彼が気になっていたのはあの同僚なのだ、と。途端に嬉しさが湧き上がって、喜んでしまって、憂いた暗雲はなんでもなかったかのように霞んで消えた。ほっと安堵するとだらしなく頬が緩んでいく。

「なに笑ってるんです」
「いえ、浦原さんの眼鏡姿が一番かっこいいなあって思っただけです」
「えー、そこはアタシが一番恰好いい、でいいんじゃないっスか」

不服げに眉根を寄せる彼。
珍しく形勢逆転できた気がした。堪らず、ふふ、と零してしまう。

「一番かっこいい浦原さんでも、妬いたりするんですね」
「寧ろ、他の男と愉しそうに話してるのを見て何とも思わない男がいるのなら、お目にかかりたい」
「ではあの時は何を思ってくれてたんですか?」
「そういうこと聞きます?」
「聞きます、知りたいですもん」

それで、何を? と訊いたところで、「そりゃあ野暮ってもんスよ」とはぐらかされてしまった。
なんだか腑に落ちないゆかは、自身に非がないのを良いことに形ばかりの禊を与えることにした。

「えー。じゃあ大人気なく妬いた罰として、今日はずっと眼鏡かけていてくださいね」
「それ罰って言うんスか、ゆかさんが見てたいのに」
「はは、そうですね。なので是非今後もかけるようにしてください、私の前でだけ」

彼と同じで、他のひとには見て欲しくないから。こんなに色気に塗れて誰かを惑わしそうな装いでは。それが自分と仲良しの女性だとしても、きっと今の彼と同じ気持ちを抱いてしまうから。

「はい、仰せの通りに」

薄く楕円を模る硝子。たったのそれだけで一喜一憂しては蜜にもなれる。
──そんな私たちが、微笑ましくて大好きだ。



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