歩みだした二人の夏 -2-




地元で催される夏祭りへゆかを誘ったのは、一ヶ月ほど前だった。正しくは、予定を空けてほしいとしか伝えてはいないが、当日にでも提案すれば彼女もきっと喜ぶのだろう、と思案したのだが。
ここの所、彼女はあまり乗り気に見えなかった事もあって、どうしたものか、とこの一週間は様々な考えを巡らせていた。

そして、訪れた当日。
店先からゆかが「こんにちは」と声をかけている。いつものように店に上がってくれば良いのに、そうしないのはやはり、彼女は遠慮しているのか。
「今行くっスよ〜」と羽織を雑に肩へかけてから外に出た、までは良かった。



「お待たせしました…… っス」

いつもの口癖を取ってつけたように零した理由。
そんなこと、自覚するまでもなかった。
店先に佇むゆかの艶やかな出で立ちが、酷く目に焼き付いて。外へ出たらまず彼女に伝えようとしたことが、一瞬にして頭から消し飛んでしまった。

当のゆかは、「今日は地元のお祭りがあるようで…」と視線を落としながら巾着を触って、どこか慌てているように見える。どうやら、自らこの装いにしたようだった。
その召物だけでなく。陽に照らされきらりと輝く簪も、透き通るような肌の首筋も、全てが刺激的な光景で、息を呑む。


「どっどうでしょう?!」

唐突に問われ、言葉に詰まった。
その問いは夏祭りに対してか、彼女の華やかな装いに対してか。彼女の様子を窺う限り、それは後者なのだろうと聞かなくとも解る。

しかし、口から出たのは「どうって、」と彼女を困らせるようなひと言だった。


────ああ、きれいだ。


たったの四文字が言えたのなら、この関係は違うものになっていることだろう。単なる日常会話の一部なら、造作のないことなのに、出てこない。
そんな簡単な言葉が、喉の奥に引っ込んで声にならないとは。何百年も生きている癖に、と自身に酷く呆れてしまう。

そうして言葉に迷っていると、ゆかが眉を下げながら「何か別の用事があってこの格好では宜しくないようでしたら、おっしゃって下さいね」などと、言い始めてしまった。

そんな言葉を出させたのは、自分だ。
捨てたも同然の心を掬い上げてくれた女性に、なんて事を言わせてしまったのか、と自身に憤りさえ覚えた。

(違う、そんな顔をさせたいんじゃない)

正直、目眩がしそうなこの非日常に、段々と思考が停止していくのを感じた。それに加え、脳天まで五月蝿いほどに鳴り響く心臓が、心底から鬱陶しい。

「いえ。ゆかサンのご想像どおり、今日はそのお祭りへ行く予定だったんスよ。それにさっきの質問、」

なんて事ないように告げてしまうのは、自身の強がりなのだと痛いほどに分かる。

そのまま、喜助は距離を詰めてゆかを見下ろした。

「とてもよくお似合いで、咄嗟に言葉が出ませんでした」

また、言えなかった。
あの四文字を告げることが、どうしても出来なかった。
言ったところで、彼女がそれを受容する未来も拒絶する未来も、安易に想像できてしまう。それほどに、自分は今この瞬間を壊したくはないらしい。

喜助は、どこか影を含んだゆかの表情を戻したい一心で、感情任せに笑みを向けた。
すると、ゆかはこの強がりの言葉でも幾分か喜んでいるようだった。目を細めて頬を綻ばせる表情は、真っ直ぐに自分へ向けられている。その事実が、心を満たしていった。

「あはは、ありがとうございます」

そう礼を告げる彼女。
素直に喜んでくれたのだろうか、普段よりも戯けているような表情に理由はあるのか。彼女の事になると、情けなくも解せないことが多い。

ゆかは続けて、考えもしなかったことを突然言い出した。

「ずっと頑張った甲斐ありました。実は最近、お教室へ行って着付けを学んでいて」

思わず、手を口許に添えてしまう。ただじっと考え込む振りをした。
それを聞いて驚くも、嬉々たる想いが溢れ出ないように、手で隠しては、その言葉の意味を噛み締めた。

「えーっと… では。先週末やその前から忙しかったっていうのは」
「ああ、あれは空いている時間に着付け教室へ通っていたんです。浦原さんには当日まで内緒にしておこうって思ったら余計に楽しくなっちゃって」

先週までらしくない考えを巡らせていたのは、一体なんだったのか、と一瞬にして馬鹿らしくなった。
忙しい理由も、食事を断った理由も、今日この日のために。それを理解すればするほど、胸の奥がもどかしい。

「…それほど今日を楽しみにしてたんスか」
「えっ、まあそうです、けど。私、お祭り大好きなので」

お祭りが大好きだから、という正当な理由も、今の自分には都合の良いようにしか捉えられない。

(……ああ。 勘弁してほしいんスけど、)

暫く口許に添えた片手を、目頭に当てるしかなかった。まるで顔を覆うようにして。隠しきれない表情を、意地でも見せないようにするには、こうするしか。

「どうかしましたか…?」

ゆかは、心配そうに自分の腕にそっと触れて顔を覗く。その感触にびくり、と驚いて咄嗟に彼女の腕を掴んだ。

「いえ、アタシも楽しみにしていましたよ。ただ… 今日はもっと心躍ってるんスけど」

他の感情を悟られないよう、落ち着きを装う。
けれど、喜びだけは、隠さずに吐露しても良いのだろう。心が躍っているのは紛れも無い事実だ。たったの四文字が伝えられなくても、今日この日を待ち望んでいたことは、彼女も同じ筈だろう。

「私も夏祭りが楽しみで… あ。これ、見てください。射的一回無料券に、フランクフルト無料券もあって」

たとえ自分と過ごすことより、夏祭りが楽しみだとしても、彼女の無垢にはしゃぐ姿が、計り知れない幸福感を運んでくれる。

「はは、いいっスよ、全部回りましょ」
「ありがとうございます! あと、浴衣を着ていくと景品が貰えるんですって!」
「浴衣を着ていくと? ゆかサン、もしや。それが目当てで…?」
「ちょうどいいなーって。 何が貰えるかは分からないんですけどね」

楽しそうに、嬉しそうに笑う声が、都度、新しい感情に気づかせてくれる。

(そうか。てっきりアタシのために、なんて話はちゃんちゃらおかしいっスね)

こんなにも可憐に着飾っている彼女は、いつだって何も飾らずに自分と接してくれる。そんな当たり前のことに、今更気づかされるなんて。
可笑しな考えに惑わされていた自身へ、クツクツと笑いがこみ上げてくる。

「そうですか、なんともゆかサンらしくて。ま、アタシはついでだとしても、十二分に嬉しいんでいいんスけど」

そう言いながら歩み寄った。

(景品のついで、くらいが今のアタシにはちょうどいいってことで)

夏らしい爽やかなそよ風が二人の間を抜ける。
普段なら眩しく煩わしい太陽にも、彼女が傍にいればそれさえも想い出へ変わっていく。そんなことが、微笑ましかった。

暑さからか、どこかぼんやりとしているゆかを誘い出す。

「ほら、行きますよ? お祭りは今から始まってますからね」

そっと彼女の腕をとってゆっくりと歩き出した。
自身の浮き足立った下駄の音が、彼女のそれと混じってカラコロと通りに響いていく。

彼女は控えめに、けれど頬を緩ませながら告げた。

「…はい。私も、もうずっとお祭り気分です」

ああ、願わくば。少しだけ欲張りになっても赦されるのだろうか。そう心重ねて、夏空を仰ぐ。

────この掴んだ腕のぬくもりも、夏の景色も、貴女も。どうか迷わず、いくつもの僕の傍にいて欲しい。



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