歩みだした二人の夏 -1-
『ゆかサン、この日なんスけど、先約がなかったら空けといてもらえます? 』
喜助が壁掛けカレンダーを指差しながら言ったのは、凡そ一ヶ月程前のこと。
もちろんその日は休日で、休みはいつも浦原商店に手伝いと称し遊びにきていることもあって、仕事がない事は彼も知っていた筈。けれど、喜助はあえて先約がなかったら、と聞いてきた。
ゆかは、家のソファに座ってぼんやりと卓上カレンダーを眺めては、そんなことを思い返していると、その日が着々と迫ってきている事に気づく。
(空けといてって、用事がなんなのか… どこに行く予定とか言ってくれないんだもんなー)
当日の予定が何なのか分からないままでは、着ていく服や靴などが決められない。いつものあの性格を考えていたら、本人に聞いても上手いことはぐらかされそうだ、と諦めた。
そうして悩みながら、机上に散らばったチラシに目を落とすと、そこには地元で催される夏祭りのお知らせが紛れ込んでいた。
「あ、ひょっとして。お祭りかなぁ」
日付は喜助が先約を入れたあの日だ。
おまけに、このチラシには射的一回無料券やフランクフルト一本無料券など特典がついている。これに向かうのであれば、この無料券たちは持っていきたいんですが、とそんなケチ臭い心が疼く。
と同時に、ゆかはある事に閃いた。
(…いいこと思いついた)
さっそく、とある所へ一本の電話を入れて、“いいこと”に行動を移していった。
≡
喜助は、商店メンバーと共に円卓を囲う。
用意された夕飯へ「いただきます」と手をつけ始めるが、早々にその勢いは止まっていった。
ふと、壁掛けのカレンダーに視線を向けると、赤丸のついた日が目に入る。
ゆかに先約を入れた日まであと一週間後と近づいていた。
しかし、最近の彼女は何かと忙しいらしく。このままあの日をキャンセルされないだろうか、と彼女の言動に要らぬ考えを巡らせていた。
(いつもなら。週末は土日のどちらか、必ずウチに手伝いに来てくれるんスけどねぇ。どちらも用事があるとは、珍しい)
いや、彼女の友人関係などは把握していないが、週末は当然のように来るものだと勝手に思い込んでいた。寧ろ、その習慣が身についてしまっていたようで。どこかすっきりとしない。
先日、金曜の仕事が終わり。その帰り際に浦原商店へ立ち寄った彼女は、珍しくそんな事を言っていたのだった。
喜助は黙々と箸を進めては、その時の会話を回想した。
『──ごめんなさい、浦原さん! 明日と明後日、用事ができちゃって来られないんです』
『そっスか、全然お気になさらないでいいっスよ。…ところで、ゆかサン。もう夜も遅いですから、夕飯ウチで食べていかれては?』
『あっ… えっと、せっかくなんですが、本当にすみません。今からまだ寄らないといけない所があって』
『アラ、随分とお忙しいようで。こちらこそ、そうとは知らずにスミマセン』
『いえ、そんなこと… でも来週末はほんと大丈夫なので!』
『なら良かったっス、アタシが来週末の先約を入れてしまって色々とあるのでしょうし。では、来週末にお逢いしましょ』
『はい、もちろん。あと、その日は… 正午頃に来ますね』
最後にそう言った彼女は、どことなく俯き加減で、声量も弱かった。
(実はあまり、乗り気じゃない… なんて考えるのはらしくないな)
思わず箸が止まり、顎に手を当ててしまう。
「おい、店長。全然食ってねーじゃん。嫌いなものでもあんのか? 食わねーなら俺が食うからな」
ジン太は返事を聞くまでもなく、「もーらい!」と喜助の夕飯を奪っていった。
「あ… それ残しておいたんスけど… いえ別にいいんス…」
零したその声は誰にも聞かれることなく、がちゃがちゃと茶碗片手に食べ続ける彼らの中へと消えていった。
≡
喜助との約束の日、当日。
ゆかは、午前中からいそいそと準備を進めていた。
「ああああ、どうしよ〜。これでいいのかな」
色々と模索に心配をしながら、そのまま外へ出て、ここずっと立ち寄っていたある場所へ向かう。
恐る恐るその建物へ入り、近頃お世話になっていたご婦人へ近寄った。
「こんにちは、先生! ど、どうかな…?」
くるり、と回って今日の装いの確認をお願いする。
「あら〜素敵。後ろもバッチリよ! 短期間の割にはよくできてるわね」
「あっありがとうございます…!」
「髪も自分で結ったのかしら? 簪も綺麗に映えてるわよ」
「えへへ、嬉しいです。先生のお陰ですよ」
ぽん、と背中を押されたら、お店の外へと見送られ。
最後に後ろから「頑張るのよ!」とかけられた声に振り返りながら、はにかんだ。
(頑張るって何を…)
彼女の声に対し、解せない想いを秘めながら、浦原商店へと向かっていった。
「こ、こんにちは〜。…私でーす」
いつもなら。挨拶すると同時に、ずかずかと大きい顔をして店内へ上がって行くが、今日は妙に羞らいを感じてしまう。
にしても、『私です』とは最初のひと声に失敗したな、と小さく後悔した。
店の奥から、「今行くっスよ〜」との彼の声が響くと、変に心臓が高鳴る。やっぱり、恥ずかしい。今日の事を閃いた時は、いいことを思いついた、と子供のように浮き足立っていたが。今更になって羞恥心が倍増した。
今日をとても楽しみにしていた、なんて思われたら、揶揄われて意地悪されてお終いだ。いや、思われても間違ってはいないんだけれども。
ゆかが店先で俯き加減に立っていると、駄菓子屋の戸からカラコロと。今日という日には特に相応わしい音が鳴り響く。
「お待たせしました…… っス」
彼が出てきた同時に、ゆかは顔を上げた。
「あのっ、今日は、地元のお祭りがあるようで、その…」
着慣れないこの装いに内気になりつつ、巾着へ入れたチラシを取り出そうとした。が、緊張からか手がまごついて、うまく巾着が開けない。
「どっどうでしょうか?!」
チラシの件は後回しにし、いきなり、見てくれと言わん勢いで直立不動してしまった。
当の喜助は、いつもの作務衣のような彼らしい格好をしている。今日は彼にとっても暑いようで、暗色の羽織りは肩にかけていた。
「どうって、」喜助はそう言って止まった。
ゆかは、ああ困らせたのかもしれない、とあらぬ焦燥感に駆られる。
「えっと。何か別の用事があってこの格好では宜しくないようでしたら、おっしゃって、下さいね」
勝手に今日はお祭りだ、と決め込んでいたのは自分だ。
しかし、仮に違っていても、今日はお祭りへ行きましょうよ、と言うつもりだったのに。一気に不安になってその憂いに押され、用意していたそれとは真逆の言葉が出てしまった。
「いえ。ゆかサンのご想像どおり、今日はそのお祭りへ行く予定だったんスよ。それにさっきの質問、」
そう言って喜助は、距離を詰めてゆかを見下ろした。
「とてもよくお似合いで、咄嗟に言葉が出ませんでした」
と笑いながら、慣れたように云う喜助。
彼にとってはきっと自然なことなんだろうな、と妙に納得してしまった。
人生経験が長いんだからそりゃ口が上手いよね、と分かっていても、直球に言ってくれた言葉が嬉しくて嬉しくて。顔がゆるゆるとにやけて綻んでしまう。
「あはは、ありがとうございます」
ゆかは自身の感情を隠して誤魔化すように、戯けてみせた。
「ずっと頑張った甲斐ありました。実は最近、お教室へ行って着付けを学んでいて」
着てきて良かった、と安堵していると、喜助は口許に手を添えて何やら考え込んでいた。
「えーっと… では。先週末やその前から忙しかったっていうのは」
「ああ、あれは空いている時間に着付け教室へ通っていたんです。浦原さんには当日まで内緒にしておこうって思ったら、余計に楽しくなっちゃって」
「…それほど今日を楽しみにしてたんスか」
「えっ、まあそうです、けど。私、お祭り大好きなので」
彼の表情は、いつものようにふざけておらず、揶揄ってくることもなかった。慣れないこの雰囲気は、どこか胸につっかえる。
そして、彼は口許に添えた片手をそのまま、顔を覆うようにして目頭あたりに当てていた。
「どうかしましたか…?」
彼の腕にそっと触れて表情を窺おうとすれば、ゆかの腕は一瞬にして捕らえられてしまった。
「いえ、アタシも楽しみにしていましたよ。ただ… 今日はもっと心躍ってるんスけどね」
そう言って柔らかく微笑んだ彼の表情は、目尻が下がってとても優しく見えた。
珍しく意地悪を言ってこない。その事もきっとこちらの気持ちを考えてくれているんだ、と思ったら、やっぱり喜助さんは何でもお見通しなんだなぁ、と感心してしまう。
「私も夏祭りが楽しみで… あ。これ、見てください。射的一回無料券に、フランクフルト無料券もあって」
「はは、いいっスよ、全部回りましょ」
「ありがとうございます! あと、浴衣を着ていくと景品が貰えるんですって!」
「浴衣を着ていくと? ゆかサン、もしや。それが目当てで…?」
「ちょうどいいなーって。 何が貰えるかは分からないんですけどね」
クツクツと笑う喜助は「そうですか、なんともゆかサンらしくて。ま、アタシはついでだとしても、十二分に嬉しいんでいいんスけど」と言いながら歩み寄った。
夏風がゆらゆらと揺れる。
太陽に照らされる屈託のない笑顔に心惹かれて、ゆかは呆気にとられた。
「ほら、行きますよ? お祭りは今から始まってますからね」
喜助は、巾着を持たない方の腕を優しくとって、お互いにカランコロンと夏の音を響かせながら、ゆっくりと歩みだした。
「…はい。私も、もうずっとお祭り気分です」
────ようやく歩き出した夏。どうか貴方の傍にいさせてほしいな、喜助さん。
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