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「こんな所に居たんだ」

 突然響いた声に一瞬驚いたが、それを表に出さないように視線だけを向ける。
 男の言うこんな所、というのはすっかり人気の無くなった海だ。凍えるような寒さの冬へ向かう今の季節では、わざわざ海を見にくる物好きは少ない。現に見渡す限りでここに居るのは自分だけだった。

「探したよ、骸クン」

 苦笑しながら、ため息混じりにそう呟き、白蘭は骸の横に腰を下ろした。それに少し眉をしかめ、逸らした視線を再び海へ戻す。
 だんだん日が落ちてきた海はうっすら赤く輝き、水面が光って見えるのが眩しい。海の波打つ音以外聞こえない静けさの中で、二人だけの空間と言うのは何だか不思議な気分だ。

「告白の途中で逃げるなんてちょっと傷ついちゃうな、いくら僕でも」
「……すみません」

 その言葉は案外素直に口にする事が出来た。罪悪感はあるのだ。

 「好きなんだ――」そう言われた時の感情を思い出す。嬉しかった。確かに自分はあの時嬉しかったのだと思う。けれどそれと同時に――もしかしたらそれ以上に――怖いとも思った。
 まさか白蘭が自分を、だなんて、まるで信じられなかった。

 例えば名前を呼ぶ優しい声、気紛れに触れる暖かな手、向けられる穏やかな瞳、その全てが自分だけに向けられたなら。そんな夢のような事を、一体どれだけ考えたか分からない。

 叶わないと思っていた。伝える事なく埋葬されるのだと、押し殺した思い。ただの友人でいる事に疲れる夜もあった。冷たいベッドの中、肩を抱き、悲しみと共に眠る夜もあった。
 けれどそれでも、いつかこの永遠とも感じる闇を突き破って、自分を連れ出してくれる事を望んでいたのだ。酷く滑稽ではあるけれど。

 でもいざその光の中に手招かれた今、自分は確かに怯えていた。

「骸クンは、何を怖がってるの?」

 あくまで優しい口調で尋ねられ、骸は目を伏せる。何を怖がっているのか、と白蘭は言った。何かに躊躇っているのに気付かれていたのだ。

「僕は……多分、変化が怖いんだと思います」
「変化?」
「関係が変わること、です」

 一線を越えてしまえば、もう後には戻れない。このまま恋人という関係になったとして、それから二人で何かをするのは、友人としてしてきた何かとは大きく意味が異なってくる。
 何気なく触れていた手は明確な意味を持つようになるし、お互いの名前を呼ぶ事すらも、何か大きな意味を持つようになる気がするのだ。

 そんな関係になって、突然その温もりが無くなったら。そう考えるだけで、どうしても怖くてたまらない。悲しくない未来だけが待っているなんて都合が良すぎる。

「骸クンはさ、色々考えすぎなんじゃないの?」

 白蘭は困ったような顔をしながらそう言った。

「そんなのは実際そういう関係になってみなきゃ分かんないし」
「…………」
「楽しい事ばかりじゃないかもしれないけど、一緒に乗り越える事に意味があるって言うかさ」

 ところで、と白蘭は此方に視線を合わせ続けた。

「骸クンの気持ち、まだはっきり聞いてないんだけど?」

 僕の事、好き?
 その瞬間、言葉にならない何かが一気に溢れ出し、それは透明な雫になって頬を伝った。

 好きに決まっている。もうずっと前からだ。この苦しい思いを抱え、言葉に出来ないもどかしさを味わった。
 それと同時に傷付く事を恐れ、ほぼ無意識のうちに作った穏やかで変化のない、そんな防壁をこの男は今、いとも簡単に崩してしまった。

 泣き顔を見られないように、抱え込んだ膝に額を押し付けて俯く。抑えられない嗚咽が微かに漏れるのはどうしようもない。

「…ッ…好き、です」

 やっと絞り出した言葉に応えるように、暖かな手で頭を撫でられた。今までの触れ方とは違う、そこから感情が流れこんでくるような、そんな感覚。

「難しい事考えるのはやめなよ。好きだって気持ちは本物なんだから」

 もう辺りはすっかり暗くなってしまっている。吹く風も冷たいはずなのに、何故か寒さは感じなかった。

「好きだよ、骸クン」

 ――ああ、その言葉を、信じてもいいのですか?
 もう、一人の夜を虚しく過ごす事はない。貴方の鼓動を感じ、喜びに抱かれて眠れる。


 きっとそれは暖かで、幸せで、夢のような世界。



(2011/11/19)



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