※声が出なくなった白蘭


Soundless


 暖かくて、良く晴れた日の午後。ふかふかのソファーに体重を預け、数日前から読み始めた小説を読んでいた。
 一冊で完結するそれはシリーズ物になっていて、今読んでいるのは三巻目。
 別に特別面白い訳でもないが、何もする事が無い日の暇潰しには丁度良かった。

 ――コンコンコン
 控えめなノック音が室内に響く。
 骸は手元の本から視線を上げ、「どうぞ」と一言だけ告げた。訪問者など、大体見当は付いているが。

「やはり貴方でしたか……」

 開かれた扉の向こう側から入って来たのは白蘭だった。
 いつもと同じ様に四方に散った白い髪をふわふわさせながら、笑顔のまま近付いてくる。骸の横へたどり着くと無言のまま手元を覗き込んだ。

「ああ、本を読んでいたんですよ。特に急ぎの用事も無くて暇なので」

 そう言ってやれば白蘭は顔を上げて微笑み、ソファーの横に空いていたスペースに腰を下ろした。
 骸はそれを見て、ふと違和感を感じた。眉間にシワを寄せて違和感の原因を探ろうと白蘭に目をやる。
 ――何かがおかしい。何か引っ掛かる。何だ、一体。
 当の本人は自分で持って来たのだろうお気に入りのマシュマロの袋を開けている。その表情はいつもと変わらず、おかしい所など無い筈なのに。
 ずっと見ていた為か、視線に気づいた白蘭が此方に顔を向け、首を傾げた。
 その時だ、違和感の正体に気づいたのは。

「今日は随分静かなんですね」

 返事は無い。

「ねえ、白蘭」

 室内には、自分が喋る声だけが響いている。

「どうして、喋らないんですか?」

 白蘭は曖昧に笑うだけで一向に言葉を発しようとはしない。
 それを見て一層不信感が募った。

「白蘭、声……」

 少し困ったように笑いながら、白蘭は自身の右の人差し指で喉を指し、それから緩やかに首を横に振った。

「風邪でも引いたんですか?」

 その問いに対しても彼は首を横に振り、否定の意を表した。普段は五月蠅いくらいに喋る男が静かなのはとても変な気分だ。
 白蘭は机の上にあったメモとボールペンを手に取り、何かを書き始めた。なるほど、喋れない代わりに文字で伝えようとしているらしい。
 暫くしてから白蘭は持っていたメモを此方に向けて来た。そこにはやや右上がりの字で、この状況になるまでの過程などが簡潔に書かれていた。

 どうやら今日の朝起きたら、いきなり声が出なくなっていようだ。風邪などで声が枯れているのではなく、言い表すなら声帯ごと無くなってしまったかのように音が出ないらしい。

「治らないんですか?」

 白蘭は笑ったま頷いた。何がそんな楽しいんだと問いたくなるような表情に、眉を寄せる。

「どうしてそんな、いきなり……」

 その呟きにもまるでお手上げだとでも言うようなポーズを取りながら首を左右に振る。
 事態は意外と深刻なのかもしれない。
 そんな事を思っていると横に座っていた白蘭が身動ぎをして、いきなり二本の腕が此方に伸びてきた。それは避ける隙もなく背中に回され、あっという間に腕の中に閉じ込められてしまった。

「……白蘭?」

 肩口に額を押し付けられ、隙間なく密着されて、首に当たる髪がくすぐったい。

「ちょっと、」

 甘えているのだろうか。ぴったりと密着したまま離れようとしない白蘭の背中に腕を回し、軽くポンポンと叩く。

「痛いんですけど」

 あまりの力の強さに不満を零してみるが反応はなかった。
 ――ねえ、白蘭。
 声が聞きたいと、思った。普段何気なく交わしている言葉が無いと言うのは、こんなにも虚無感を思わせるのか。
 未だに何の反応も見せない事に溜息を吐き、叩いていた手をゆっくりと滑らせる。小さな子供をあやすように背中をさすれば、僅かに身じろぎするのが分かった。同時に首筋にかかる髪が揺れ、思わずふ、と息を零した。

「きっと明日になったら喋れるようになりますよ」

 笑ってはいたが、やはり不安なのだろう。いきなり原因も分からずに声が出なくなってしまったのだから。
 背中を撫でる手の動きはそのままに骸は続けた。

「声、早く聞きたいです」

 そう呟いた瞬間白蘭の抱き締める力が強くなり、おやおや、と肩口の辺りにある後頭部に目を向ける。
 ぎゅうぎゅうと抱き締められる感覚は全身で好きだと言われているみたいで、骸はほんのり頬が染まるのが分かった。

「――白蘭、」

 早く、早く、声が聞きたい。思考回路を甘く溶かしてしまうようなあの声で、名前を呼んで、それから、好きだと言って。


(2011/06/21)
きっと明日にはもとに戻ってる白蘭。



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