君の腕のなか、背中越しの温もり


 人間誰しも苦手なものの一つや二つはあるだろう。自分も例に漏れず、それなりに苦手なものはある。
 まずは辛いもの。それから、暗闇。
 特に後者は本当にいけない。言い表せない真っ黒な不安が押し寄せて、それが自分を飲み込んでしまうような、そんな恐怖。
 苦労するのは夜眠りに就く時だ。電気を消すと眠れない。電気が付いていても何だか目が覚めてしまって眠れない。
 我ながら子供じみていて情けないという自覚はあるが、こればかりは本当に致し方ないのだ。
 毎晩眠る時はベッドサイドに置いてあるスタンドの明かりを点けたままにしている。
 それでも不安になる時はあるし、だからと言ってこの体質を治せるわけでもないので最近はもう諦めているが。
 とにかく骸は暗闇が嫌いだった。

 だから今、自分の置かれている状況は深刻だ。それはもう本当に。

「電気消すよー」
「……はい」

 僕の気も知らないで何て脳天気な声を出すんだ、と思わずにはいられなかった。
 たまたまだ。今日は本当にたまたま、白蘭の家に泊まる事になった。
 一緒に酒でも呑まないかと誘われて何軒か居酒屋を回って、まだ呑み足りないと言った白蘭に家まで連れてこられた。
 勧められるままに酒を飲み、気付いたら終電はとっくに出ている時間だった。
 同性同士ではあるが、自分たちは所謂恋人という関係だ。
 終電を逃した骸に白蘭が泊まっていけばいいと提案する事は、何ら不思議な事ではない。
 白蘭の言葉に甘えて泊まって行くと返事をし、シャワーを借りている時にある一つの問題に気づいた。寝るという事は電気を消すのは必須だという事だ。

 まさか暗闇が怖くて暗い部屋で眠れません。だなんて、口が裂けても言えない。
 きっと白蘭は何も言わないだろう事は安易に予想出来たが、それを口にするのは躊躇われた。主に自分のプライド的な問題だが。


「遅かったねー。溺れてるのかと思ったよ」
「……すみません」

 寝室のベッドの上、既に横になって本を読んでいた白蘭が、待ちくたびれたとでも言うような表情でそう言った。
 問題に気づいてからはなるべくゆっくりとした動作でシャワーを浴び、時間をかけて服を着て、何時もより丁寧に髪を乾かした。
 けれどそんな事をした所で、暗闇で眠るという状況を回避出来る訳では無い。分かってはいても、それから逃れようと無駄な悪足掻きをしてしまったのは、最早無意識に近かった。

「おいで」

 自然に、本当に自然にベッドの一人分空いたスペースを軽く叩きながら言われ、渋々そこへ近づいていく。
 スルリと横に潜り込み、電気消すよ、と言う声をどこか遠くに感じながらきつく目を瞑った。
 カチッという音と共に瞼の裏側に感じていた僅かな光が消え、目の前は真っ暗になってしまった。
 思わず小さく息を呑む。
 大丈夫だ。別に一人で暗闇の中に居る訳ではないのだから、何を怖がる必要があるのか。
 そう考えてみても、恐怖感から逃げる事は出来なかった。
 

 ベッドに入って一体どれだけの時間が過ぎただろう。きっと数分にも満たない事は明白だったが、骸には何時間にも感じられた。
 堪えきれずに体が小刻みに震えているのが自分でも分かって、情けないような気持ちになる。
 気付かれなければいい。悟られたくない。そんな気持ちとは裏腹に、気付いて欲しいとも思う自分の欲深さには呆れてしまう。
 手繰り寄せるようにして頭まで被っているシーツを握りしめていると、静かな部屋に声が響いた。

「骸クン、どうかした?」

 問い掛けるようにして発せられた言葉は紛れもなく、自分の横で寝ている白蘭のものだった。

「震えてる。寒い?」
「ち、が……」

 シーツを捲られ、覆い被さるようにして顔を覗き込まれ、探るような視線を向けられた。
 声までが震えて上手く返事が出来ず暗闇の中に浮かぶアメジストのような瞳を見上げる。

「どうしたの?」

 頬をゆるゆると撫でられ、少しだけ震えが和らいだ気がした。
 もういっその事言ってしまえば電気を点けてくれるだろうかと考え、意を決して口を開く。
「わ、笑いませんか……?」

 不安げに問うと白蘭は、笑わないよ、と言って今度は目尻を撫でた。
 小さくため息を吐き、聞こえるか聞こえないか位の声で呟く。

「……暗闇が、苦手で」
「へ?」

 徐々に暗闇に馴れてきた目は、はっきりと目の前の男の顔を捉える事が出来た。
 予想外だとでも言うような表情を隠そうとせず、素っ頓狂な声を上げる白蘭を見て、やはり言うべきではなかったかと、途端に恥ずかしくなる。
 良い歳した大人が何を言っているのか。そう思われているに違いない。

「何だ、そんな事だったの」
「そんな、事?」

 聞き捨てならない言葉を零す白蘭を凝視し、馬鹿にしているのかと言えば、白蘭は違うよと言った。

「怖いならさ、もっと早く言ってくれれば良かったのに」

 言いながら体勢をずらし、白蘭は後ろから骸を抱きしめた。
 まるで壊れ物を扱うような優しい力。それでいて安心感のある力。骸は心の中に巣くっていた恐怖が消えていくような感覚に陥った。

「こうやって抱きしめてれば怖くないでしょ?」

 白蘭が喋るたび、耳元にかかる吐息に心臓が高鳴る。

「ね、一人じゃないよ」

 今まで暗い部屋でなど絶対に眠る事が出来なかったのに。
 徐々に押し寄せてくる睡魔に驚きながら、骸はそれに逆らう事はせず、ゆっくりと意識を手放した。遠くにおやすみと言う声を聞きながら。


 背中から感じる体温は酷く心地がいい。
 眠れぬ夜は、君の腕のなか。


2011/03/25




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