1 「もういい! 真ちゃんなんか知らない!」 ああ、そうだあのとき。 何故オレは、走っていく高尾を止めなかったのだろう。 何故オレは、走っていく高尾に背を向けてしまったのだろう。 切欠は些細なことだった。お互いの仕事が終わったら食事にでも行こうと約束して、しかし待ち合わせの時間に高尾は遅れてやってきて。その理由が同僚と雑談してただとかそんな理由で、お前は約束を守ることも出来ないのか、だらしがない、と――他にもキツくあたってしまっていた気がする。今にして思えばただの嫉妬だったと、高尾がオレより同僚を選んだことに対しての醜い怒りだったのだとわかるのだが。 鳴り響いたクラクションと鈍い衝撃音。何事かと振り向いた先で飛ぶ、見慣れた人影。 「た、かお……?」 何もかも、今更だ。後悔の念に苛まれたって、時を戻すことは出来ない。 「高尾!!」 悲鳴にも似た声を上げたとき、オレは既に高尾の元へと走っていた。頭の下へと回した掌に、ぬる、とした感触が伝わる。 赤く染まった己の手を見つめながら、無機質なサイレンの音を聴いた気がした。 * 震えを抑え、何とか扉に手をかける。しかしそこから繋がる空間へ、踏み出す勇気までは沸いてこない。 共に乗った救急車の中、オレが高尾の息遣いを耳にすることは一度もなかった。一時的に意識を失っているだけだと告げられても、悪い予感に支配された頭では聞き流してしまうだけで。 救急病院に運び込まれた高尾が治療を受けている間、祈る気持ちで両手を組んだ。廊下は水を打ったような静寂に包まれており、その所為かあの悪い予感がどんどん膨らんでくる。けれど、今は高尾を信じて待つしか出来なくて――何も出来ない、非力な自分を呪いたい。 オレが高尾の為に出来ることとは何だ? 高尾の為に、何かオレがしてやったことはあったか? 微かな物音共に、治療室の扉が開いた。反射的に立ち上がったオレを、出てきた医師が別室へと案内する。早まるたび大きくなる鼓動を煩わしく思いながら、勧められた椅子の上、オレは医師を真っ直ぐ捉えた。 「命に別状はありませんよ。頭を強打したのと、全身の打撲、左腕の骨折はありますがね」 医師の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす――が、オレの不安はおさまるどころかさらに募り、動悸も早まる一方だった。 何故だ? 高尾の無事を確認出来たというのに、何故――? それがただただ怖かった。何かよくないことが起きるのではないかと――そう、言われている気がして。そしてその不安を増長させるように、医師の唇が再び動いた。 ここでこのまま突っ立っていても仕方がない。どのみち動かなければならないし、いつかは高尾に会わなければならないのだから。ならば早いに越したことはないだろうと、思い切って高尾のいる病室へと続く扉をスライドさせた。 ベッドに横たわっていたのは、病院から貸し出された寝巻きに身を包んだ高尾だった。頭に巻かれた包帯が痛々しく、袖口からも同じ白が覗いているのを見れば無性に泣きたい気持ちになった。 そっと近付き、ベッドサイドに添えられた椅子に腰を下ろす。気配を察した高尾はゆっくりとこちらに顔を向け、その虚ろな瞳でオレを見た。 「――具合はどうだ」 言いながら、医師が告げてきた"可能性"が反芻する。違ってほしい、その可能性が外れてほしい――願いながら高尾の瞳を見つめ返しても、やはり色は失われたままで。 小さく、高尾の唇が何かを発した。音になることはなかったが、けれど確実に、その唇はこう言っていた。 『だれ――?』 外傷性部分健忘。 医師の言葉が、頭痛のように脳内に響いた。 [back] |