▼ 34 魔術師と使役獣 (ロイザ視点)
もう三日ほど、俺の主であるセラウェが家に帰ってこない。
オズによると上司の司祭のもとで、なにやら研究の手伝いを行っているというがーー。
鼻が効く白虎の俺は、直接主の言葉もなく急に告げられた事柄を、鵜呑みにするほど愚かではない。
月が夜空に座り、騎士団領内の活動が静まってきた頃。
俺は魔術師専用の建物にある、司祭の研究所へと忍び込んだ。セラウェの匂いは、確実に存在している。
あいつが研究馬鹿だということは百も承知だが、近くにいるというのに俺の餌を忘れて何かに没頭するほど、薄情ではないということも知っていた。
屋内には結界が仕掛けられていたが、半実体である幻獣の俺には、そんなもの効かん。
躊躇なく破り、足を踏み入れた。
気配を消して廊下を歩き、扉の前に立つ。中から二人の男の声が聞こえてきた。
「ーーさあセラウェ君。夜の診察の時間だよ。改良した気付け薬もそろそろバリエーションがなくなってきてしまった。今回ので起きてくれるといいんだが……」
「イヴァン。あなたそれ何回目なんです? 短期間に何度も試して良い魔法薬ではないでしょう。私の目には、彼を体よく実験体にしているように映るんですが…」
「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ、エブラル。それほど彼の眠りが不自然に深いせいだろう。こんな事例は滅多にお目にかかれない。僕や君の術式すら一向に効かないとなると、もはや薬効とセラウェ君の治癒力に懸けるしかーー」
ぼそぼそと漏れる不穏な会話は、司祭と……あの銀髪の呪術師によるものだ。
危機を察知した俺は、即座に扉に蹴りを入れた。
白衣の後ろ姿を見せる黒髪の男が、たいした驚きもなく振り返る。手には注射器のようなものが握られており、奴のすぐ目の前の寝台には、目を閉じて眠る主がいた。
「おや……? 君はセラウェ君の、使役獣じゃないか。困ったね。僕に用がある時は約束をとりつけてくれないと」
「俺の主に何をしている」
人間には無表情に見えるかもしれないが、俺は激昂していた。
魔術師に激しい敵意を向け威嚇しながら、セラウェに近づく。
司祭は両手を上げて降伏の姿勢を見せ、おどけたように笑みを浮かべた。
「怖いなぁ。そう怒らないでくれ。ただの治療だよ。ちゃんとハイデルの許可も取ってある。そうだろう、エブラル」
同意を得ようとする男の視線が、扉付近に向けられた。すでに主が横たわる寝台のそばに来た俺は、同じ方向を睨み付ける。呪術師は不気味に薄い笑みを見せ、控えめに頷いた。
後ろ手で扉を閉め、ゆっくりと鍵をかける。
「ええ、まあそうですが……ロイザさん、こんばんは。セラウェさんを心配なさってお越しになられたのですね」
白々しい奴の言葉を無視した俺は、主を真上から見下ろし、微かに上下する胸に耳を当てた。
鼓動は落ち着いていて、当然のように体の活動は感じられない。普段の眠りよりもさらに、精神の沈みが感じられる。
「眠っている……」
「ああ、そうなんだ。何をしても起きてくれなくてね。君、何か理由を知らないかい?」
ぽつりと呟いた俺に、司祭が真っ直ぐ問いかけてきた。
まるでずっと俺を待ち構えていたかのような、この機を逃してはならないといった風な魔術師の気迫に、注意を引かれた。
俺は、殺気を隠すことなく身構えた。人型であることは不利だったが、今獣化すれば、余計な隙を与えてしまう。
セラウェのそばからは離れないまま、無詠唱で右手のひらを開く。それを最も距離の近い司祭に向かって、勢いよく翳す。
月明かりと照明に照らされていた研究室に、パリパリッと凍てつく鋭い音が連なった。瞬く間に辺り一帯を、標的にした奴ごと氷漬けにしてやろうと考えた。
しかしほぼ同時に司祭の周りが円形の透明な壁に包まれる。幻獣の神秘魔法による氷攻撃は、広がる防壁にまとわりついた状態で阻まれ、パリン!と全てが崩れ落ちた。
「……素晴らしい、なんと美しい氷の舞いなのだろう、ロイザ君!」
微塵も恐怖を見せず感動した面持ちで皮肉る男に、首をひねる。
どうやらこいつは、ただ俺が戯れで時間を潰せる相手ではないようだ。だから手練れの魔術師は、鬱陶しい。
「ちょっと、止めてください。二人とも。セラウェさんに当たったらどうするんです、危ないでしょう」
わざとらしい文言で近くに来たのは、灰色のローブに身を包んだ呪術師だ。
俺が密かにこの教会の中で最も警戒している男だった。
「ロイザさん、相手をしてくれる飼い主さんが眠ってしまっていて、力が有り余ってるようですね。どうですか、別の場所で私とひと試合……」
「断る。お前はグラディオールの仲間だ。同類の匂いがする。甘く見ると痛い目に合いそうなんでな」
本音を告げると奴の笑顔がぴくりと不快感を表した。
「……同類? 仲間ですって? 失礼な人ですね。そういった無礼はいくら貴方でも、即座に訂正して頂きたいものだ」
ほう、冷静な呪術師をいとも簡単に焚き付けることが出来るとは、さすが俺の元主の名だな。
そう感心しつつ、俺は速攻で体勢を変え、素早く奴の懐に潜り込んだ。さほど変わらない体格を掴み手応えを感じた瞬間、体術で奴を捕らえようとする。
しかしーーまたもや俺の試みは失敗に終わった。
「おや、貴方意外に、熱い方なんですね。いつも涼しげな態度なのに。……でも残念ながら、私はこっちです」
視界が一瞬、真っ暗闇の影の中に囚われた。
一度閉じた目を開けるとすぐ、目の前には藤色の瞳を歪ませる呪術師がいた。
俺の首を容赦なく掴み、ぐっと五指に力を入れる。外見に似合わない強烈な締め付けに、俺は呻き声を漏らした。
「ぅ……グ……ッ」
ああ、そうだ。こいつは確かにグラディオールの側だった。
口早に詠唱を行い、俺の自由を奪ってくる。拘束魔法だ。
元主とは違う、静的な暴力的術式の施し方ーー
使役獣の窮地だというのに寝台ですやすやと眠る主を、苦し紛れに見やった。
「エブラル。君は怒ると容赦ないな。怖い怖い」
「そんなことありませんよ。セラウェさんの前なので、ちゃんと優しくしています。ね? ロイザさん」
「……ぐっ……ッ……離、せ……」
俺は無様に両手足を広げ、壁に押しつけられた。
肉体を張り付けたまま、身動きが取れない。本当に、魔術師など大嫌いだと、神聖な幻獣らしからぬ恨みが募っていく。
その時だった。外からある気配が近づいてくる。
迷いのない革靴の音と、長めの衣服が擦れる音。俺はその男の匂いに完全に馴染みがあった。
非道なこの二人もそうだったのだろう、互いに顔を見合わせ、動きを止める。
男が扉の前でぴたりと止まった時、何かを諦めた表情のエブラルが、鍵を開けた。
現れたのは、室内の様子に目を見開く、金髪蒼眼の騎士だった。
「……何を、してるんだ。お前ら……」
素早く状況を確認し、俺を一瞥した後、小僧はすぐにセラウェの元へと向かった。
体を調べ異常がないことを悟ると、俺達に疑いの目を向ける。
「おい、白虎。なぜお前は壁に張りついてるんだ」
「知るか。そこの動物虐待男に聞くがいい。俺はまだ何もしていない」
素知らぬ顔で返答すると、二人の魔術師は憎らしくも苦笑して見せた。
「いや何もしてないことはないだろう。いきなりここに侵入して、僕に攻撃してきたじゃないか」
「そうですよ。私にも酷い暴言吐きましたよね、ロイザさん。だからちょっと捕まえてみただけです。舐められたら終わりですから、私達の世界は」
笑顔でのうのうと宣う呪術師に呆れて物が言えん。
俺が無言で小僧を見やると、奴は訝しんだ顔つきのまま、やがて疲れたような溜め息をついた。
「離してやれ。そいつは一応、兄貴が大事にしている獣だ」
小僧の輝かしい文言が室内に轟く。胸を張った俺はやがて、渋々と言うことを聞く敵二人によって、拘束が解かれたのだった。
しかしまだ本当の意味での自由はなく、俺は目下三人の男が見張る中で、強い視線に晒されていた。
「そういえばハイデル。君ね、何も三時間置きに来なくてもいいから。ほら、まだセラウェ君目覚めてないだろう」
「……なんだと? 心配なんだから時間の許す限り来るに決まってるだろう。……というかさも当然のように兄貴が目覚めないとか言うな、いつになったら起きるんだ? お前約束した通りきちんと治療しているんだろうな?」
「まあまあ、ハイデル殿。私も見張ってますからそうカリカリしないで……そうだ、せっかくロイザさんが来てくれたので、もう少し事情をお聞きしようと思ってた所なんですよ」
奴らが好き勝手に話した後、俺に矛先が向けられる。
その前に俺は一言言いたくなった。
「おい弟。こいつらは本当にセラウェを託せるほど、信頼出来る人間なのか」
当然の疑問をぶつけると、小僧は一瞬眉を潜めた。奴は俺でも異常に感じるほど、セラウェへの愛情と執着が凄まじい。そんな男がこのような行動に出たのだから、答えは分かりきっている。しかし本心を口から聞くまでは、納得ができない。
セラウェは俺が身を捧げると誓った、主なのだ。
「信頼出来なければ、こんな事はしていない。エブラルだけでなく、司祭にも俺達の関係は明かしている。お前に言わなかったのは悪かったが、兄貴の回復を願っているんだ。助けられる方法があるのなら、俺だって全てを投げ売ってでもそうしたい。分かってくれないか」
真剣に見つめる瞳は、俺に存在しないはずの心に切に語りかけてきた。
感情らしきものが動かされたのは、不思議な感覚がした。
「……そうか。お前がそこまで言うのなら、俺もお前を信じよう」
素直にそう告げると、三人の男の驚きの視線が突き刺さる。
俺は動じることもせず、腕組をした。
「ハイデル殿。良かったですね。これはもしかして、新たな友情の誕生では……この感動的な光景、セラウェさんにも見せてあげたかったです」
「……えっ。ああ、別に友情とかそういうんじゃ……こいつの印象が変わったわけじゃないし……」
「照れることはないさ、ハイデル。というか僕らも君にそこまで信頼されてたとは、いやあ、中々嬉しいものだね。今日は乾杯をしたい気分だよ」
和やかな空気が研究室に流れ込む。俺の発言で人間共が容易く有頂天になっているようだ。
微笑ましいものだな、と自然に笑みを浮かべそうになる。
「ふっ。事態は一歩前に進んだようだな。では俺からひとつ、お前達に教えてやろう。セラウェが眠っているのは、おそらく俺のせいだ」
俺は初めて、主の状況を鑑みて生まれた自分の推測を、示して見せた。
するとその場は急に、しんとなった。
小僧は大きく目を見張り、やがて肩を小刻みに震わせ始める。
ん?
何か奇妙なことを言っただろうか。
「ど、どういう意味だお前、きちんと説明しろ。お前が兄貴をこんな風にしたのか?」
前に出て迫り来る騎士を、真っ向から受け止める。魔術師らも途端に空気を張り詰めさせ、俺の言葉に耳を傾けてきた。
「わざとではない。実は俺は……主の記憶を甦らせることが出来ないものかと、自分なりに考えていた。そこで思い付いたのだ。セラウェがお前と出会ってからしきりに漂わせていた様々な感情を、俺がなるべく忠実に思い出し、また奴に還元できないものかと……」
これは自分でも些か感覚的な行為であるため、抽象的な説明になってしまうのは否めない。だが皆に分かるように試みた。
そして実際に行った行為を、明かしてみせた。俺としては簡単なことだが、継続するのには中々集中力が必要だった。
「……つまりお前は、兄貴が寝ている間に……添い寝をしながら感情を共有させていたということか」
「ああ、そうだ。魔力を循環させていたようなものだな。しかし繰り返しているうちに、セラウェが淫らな夢を見るようになったとこぼしてな。離ればなれにさせられてしまった。まあそれ以降は日中の魔力供給の時にこっそり行っていたが……少々やり過ぎたかもしれん。主を疲労させてしまったようだ」
俺の明瞭な見解を聞き終わると、奴等は一人残らず唖然としていた。
「ふむ。感覚を共有するとは……そんな繊細なやり取りが可能なのか、幻獣との契約とは。素晴らしいデータだ。しかし淫らな夢というのは……どういうことだろうな、エブラル」
「そうですね……まさか貴方、夢の内容まで操れるのですか? ロイザさん」
「……え? 嘘だろ、まさかそんなわけないだろ、おい白虎」
何かがショックだったのか、勘違いしている小僧に対し、俺は首を横に振った。
「俺は夢魔ではない、そんなことは出来ん。セラウェが勝手に見ていた夢だ」
事実を断言する。詳しいことは不明だが、単に奴の嗜好だという可能性の他に、潜在的な呪いの記憶による影響があるのかもしれないとは告げた。
なぜなら以前セラウェが呪いに苦しんでいた頃も、時折同じことが起きたからだ。
神妙に考え込んでいた男達が、やがて口を開いた。
「なあ、思うんだが。兄貴の失神の原因が、疲労によるものだとしたら……このまま少し待てば、目覚めるんじゃないか?」
「そうだな……僕も同意見だ。ロイザ君、君には少しセラウェ君から離れてもらって、様子を見るというのはどうかな。君の話が正しければ、この昏睡は一時的なものの可能性が高い」
二人の意見に対し、呪術師も同様に頷く。俺もとくに反論はなかった。
よく人間から己の自由さを不本意に咎められるが、主の状態を考えると、今回ばかりは反省の念が湧かないこともなかったのだ。
俺は小僧に目をやった。
「おい。怒らないのか? 故意ではないとはいえ、俺のせいでセラウェはこうなったんだぞ」
不思議といつものからかいではなく、率直に奴に尋ねた。奇妙だが、まるで人間のようなやり取りを介して、何か返答を期待したのだ。
小僧は複雑な表情をしていた。俺には読み取ることが難しく、まるでいつもと反対の立場になったようだった。
「兄貴のことは心配だし本当にかわいそうだとは思うが……お前を責める気にはなれん。そうしてくれたおかげで、距離が近づいたこともある」
意外な言葉に拍子抜けする。
奴はどことなく、変わった気がする。弱くなったのではない、むしろ内に秘める決意の強さのようなものを醸し出している。
「小僧。セラウェが最初に見たお前との夢は、自発的なものだ。俺の影響はない。きっとお前への気持ちが強かったから、溢れていったんだろう」
別に言うつもりのなかった事実が口をついて出た。
顔を上げた小僧の何やら感動的な表情を見て、俺は軽くため息をつく。
俺達は、未だ寝台に転がっているセラウェに目をやった。
奴の頬を指先でつつき、声をかけた。
「セラウェ、いい加減起きたらどうだ? お前が寝ていてはつまらん。お前の弟も、遊びがいがないぞ」
何気なく言った言葉に、一瞬、主の肌がぴくりと震えた気がした。
注意深く観察していた小僧も気がついたのか、身を乗り出す。
「今、動かなかったか? おい、兄貴……?」
そっと触れた肩が、優しく揺らされる。
すると更なる進展が生じた。近くに感じるセラウェの鼓動が、徐々に速まっていったのだ。
「…………ん……」
小さく呻いたセラウェの緑の瞳が、ゆっくりと開かれた。
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