▼ 18 二人の男
「……うぁッ!」
転移魔法により別の場所へと連れ去られた俺は、着くなり師匠から乱暴に放り投げられた。
どさっ、と床に転がり、一瞬で切り替わった景色に瞬きを繰り返す。
そこは見知らぬ居間のような場所だった。
そばにある大きなガラス扉からは、一面に広がる湖が見える。
内装も師匠の家とは違い、すっきりと白い家具でまとめられた近代的な室内だ。
「どこだ、ここ……あんた引っ越したのか? やっぱ時間経ってんだな、ほんとに……」
腰を擦りながら立ち上がると、師匠は羽織っていた外套を脱ぎ、近くのソファへと大きな音を立てて腰を下ろした。
俺をじろっと睨み、顎で向かいの席に座るように促してくる。
「違えよ、ここは単なる別荘だ。いくつかあるうちのな。俺の家はお前の弟に割れてんだろうが。ここなら足がつかねえ」
「……えっ。あいつ師匠の家まで知ってんのか。どうなってんだよ、まじで」
頭を抱えながら正面に座った。色んなことが一度に起こり過ぎて、まだ混乱が治まらない。
ゆっくり前の男の顔を確認すると、仏頂面がふいにニヤリと口角を上げた。
「へえ。お前本当に何の記憶もないんだな。笑えるわ。お前の弟の心中は相当穏やかじゃねえだろうなぁ。ハハッ」
壮年の妖術師が何の躊躇いもなく、俺の弟を馬鹿にしている。
さっきから何なんだ。このおっさん、明らかにあいつの事を嫌っているのが伝わる。
「何がおかしいんだよ。今俺達、た、大変なことになっちゃってんだぞ! 他人事だと思って楽しんでんじゃねえ!」
「……ああ? 他人事じゃねえよ。今お前を助けてやったのはどこの誰だ? 俺に感謝しろよ、セラウェ」
「はっ? 人をいきなり誘拐して何が助けただ! ……もういい俺帰るからなっ」
立ち上がって素早く転移魔法を唱えるが、しんとしたままで、うんともすんとも言わない。
なんだよこれは。おいふざけんな。
「お前は馬鹿か? ここでは俺以外の魔術は通さないよう結界が張ってある。つまりな、今お前はちょっとした監禁状態ってわけだ。助けも来ねえし諦めろ」
背もたれに両腕をかけ、偉そうに足を開いたまま言い放つ。
俺は怒りよりもまず、この状況に絶望した。
今こんなことをしている場合じゃないのに。クレッドは……どうなったんだ?
「マジで何考えてんだ、あんた……あいつは……あの男は誰なんだよ、弟に何かしたら許さないからなッ!」
必死に大声を出し喚いても、師匠の余裕の顔つきは全く崩れない。
なんでこんなことをするのか、理解出来なかった。俺の知らない間に、この二人敵対していたのか?
「落ち着けよ。お前こそ何考えてる? さっきの話聞いてたか。全部マジだぜ。なぁ、吐いたりしないのか? お前、弟とヤってたんだぞ」
急に師匠がぞっとするような低い声音で、俺を殺気に満ちた視線で捕らえてきた。
何もオブラートに包んでいない直接的な台詞に、目の前が途端に曇り始める。
情けなくも体が震え、拳を見えないようにぐっと握りしめた。
「……そういう言い方、やめろよ。俺まだ、よく分からねえんだから」
小さな声で答え、下を向く。
弟と本当に恋人同士だったとして、なぜそうなったのか、その事実を知った後でもまるで思い出せないのだ。
きっと、これまでの話を考えれば、弟は俺に長い間想いを寄せていたのだろう。
そして俺が、クレッドの想いを受け取ったということになる。
「ふん、中々信じられねえな。もっと拒否反応が出るかと思ったが。セラウェ、お前相当なブラコンにしても、俺の理解を越えてるぜ」
呆れ顔でため息を吐かれ、家族に対する俺の何を知ってるんだと段々腹が立ってきた。
でも正直、自分でも不思議な気はした。
絶対に嫌だとか、最低だとか、そういう気持ちは湧いてこないのだ。
ただひとつ、気分が沈むとすればーー。
「俺、あいつのこと大事なんだよ。……だからさ、すげえ責任を感じる……だって、俺がそういう道に引きずりこんだって、ことだろ…? 兄貴のせいだろ、そんなの…」
そうだ。
俺はとんでもないことをしてしまったのでは?
兄弟の、実の弟は立派な男で、優しい誠実な騎士でもある。そんな奴の将来を潰してしまったんじゃないか。
俺が真剣に考え込みうなだれていると、信じられないことに師匠の爆笑が響いた。
「笑うな! 何がおかしいんだよッ」
「いや笑うだろ。お前はあの男を甘く見すぎだ。とんでもなくしつけえ野郎だぞ。おまけに常に兄貴のことしか頭にねえ。いいか、お前は奴に手込めにされてんだよ、甘い言葉に騙されてな。おら早く目覚ませ、セラウェ!」
語気を強めて怒鳴られ、ひゅっと首を竦める。
手込めってなんだよ。あいつをそんな風に悪く言うな。
確かに我儘なとこはあるけど、素直な可愛い奴だ。俺達が恋人同士になってしまったんなら、俺はきっと、ほんとに好きになってしまったんだろう。
そうでなければ、あんな風に奴と触れ合ったり出来るか? 色々なことが、知らずに自分の許容範囲になってたということは、潜在意識が認めていたんじゃないか。
「目覚ませっつったって、もうある意味覚ましてんだろーが。……そんで今俺は悩んでんだよ。もう放っておいてくれ師匠」
投げやりに言った。
悩むのは本当だが、簡単に答えは見つからない。
どんな顔してクレッドに会えばいいんだ。考えれば考えるほど、熱が出てくる。
「おい、お前顔が赤いぞ。大丈夫か」
「あんたのせいだろ。……なあ、早くクレッドのこと助けてくれ。ほんとに許さないからな…」
急に疲れが襲ってきた俺は、座っていたソファにぺたりと体を横たえた。
立ち上がった師匠がそばにやってきて、額を大きな手のひらで押さえる。
「あいつのことは心配するな、んな簡単にやられるタマじゃねえよ。まぁここには来れないだろうがな。少しは苦労すりゃいいんだよ、若えんだからな。……セラウェ、お前は少し寝とけ」
額をぺしりと指で叩き、ぶっきらぼうに言われる。
寝てる場合じゃないのに、力が入らない。もう嫌だ。今日は朝から、楽しく過ごしていたのにな。
なんで俺は今、こんなところであいつと、離れているんだろう。
迎えに来るって言ってたが、俺はなぜかその言葉を心のどこかで信じたまま、ゆっくりと眠気に誘われていった。
「ああ……やっぱすげえ可愛いなぁ、あんた……今あいつのものじゃねえんだろ? ちょっとぐらい、触ってもいいよな?」
指先でちょん、と頬を突っつかれながら、何やら楽しそうな男の声が聞こえてきた。
耳に馴染んだ声じゃなく、不審に思った俺は閉ざしていた瞼をひらく。
すると、目の前に知らない男の顔があった。
「…………あぁぁ″″ッッ! 誰だてめえ!」
叫び声を上げながら飛び起きてソファの背もたれにへばりつく。
男はにやついたまま、床にあぐらをかいて座り、がっしりとした腕を組んだ。
こいつ、さっきの男だ。確か師匠がナザレス、とか呼んでた奴。
「お前、クレッドに何をした! あいつはどこにいるんだ!」
身を乗り出して奴の胸ぐらを掴み、必死に揺さぶった。
しかし奴は不気味にも恍惚とした表情で、なんと俺の背に広い腕を回してきた。
「怒んなよ、セラウェ。そんな風に迫って来られたら、勃っちまうだろ? なぁ」
「……はっ? んっ、な、離せこの変態野郎ッ」
何故俺は卑猥な言葉とともに抱き締められてるんだ。
おぞましさに震えつつもがいていると、男の首根が凄い勢いで後ろに引っ張られた。
「いっでぇ″ッ! 何すんだよクソ、おっさん!」
「こいつに触るな。ちょっとはじっとしてられねえのか、お前は。これだから獣は嫌いなんだよ。いくら躾しても聞かねえ」
「ああ? いいじゃねえか今ぐらい。たまには俺にも良い思いさせろよ」
二人が親しそうに話すのを横目で見やる。
なんだこれは、恐ろし過ぎる。暑苦しい男二人に囲まれて、息がしづらくなってきた。
「あ、あのさ師匠。こいつ誰? さっきのうさぎだよな……新しい使役獣か?」
「あ? こいつはナザレスだ。お前の元ストーカーな。まぁ使役獣で大体合ってるぞ。俺の前ではほぼ人化させてるがな」
全然意味が分からん。俺のストーカーってなんだ。
一体前に何があったというんだよ。
驚愕の眼差しで奴を見ると、まだこっちをいかがわしい目付きで眺めていた。
「本当に覚えてないのかよ、悲しいぜセラウェ……まぁ俺は忘れられるのは慣れてるけどな」
顎に指を添え、目を細めて見つめられる。
なんだろう。こいつは非常に危険な奴だ。何も覚えてないが、それだけはひしひしと感じる。
「おい。俺はちょっと出てくる。ナザレス、こいつ見張っとけよ。何もすんじゃねえぞ」
「あーはいはい。いってらっしゃーい」
「……あっ!? おい、師匠どこ行くんだよ、こいつと二人にすんなって!」
「びびんなよ、俺のこと信用して。セラウェ」
「出来るわけねえだろ! ちょ、離れろコラッ」
後ずさって足で必死に抵抗してるうちに、本当に師匠はどこかへ消えてしまった。
目の前が真っ暗になり、守りの姿勢に入って固まる。
すると男は頬杖をついて、くつくつと笑ってきた。
「……おい、俺の弟に何したんだ。全部言え」
「ん? そうだなぁ。ちょっと喧嘩しただけだよ、殴り合いのな。あいつ剣なくても結構戦えるんだな、びっくりしたぜ。でもあのムカつく力使ってきやがってよ、ほら見ろよ、この腹。また抉られちまった」
ぴらっとシャツを捲ったナザレスの腹は、くっきりと風穴が開いていた。
小麦色の鍛えられた体は、それでもピンピンしている。
俺は衝撃的な光景に一瞬言葉を失った。
「それ、あいつがやったのか……?」
「そうだよ。あの金髪ひでえよなぁ。いつも俺のこと目の敵にしやがって」
舌打ちしながら文句を垂れている。
こいつはおそらくロイザとまではいかないだろうが、完全な実体のない半実体の幻獣か何かだろう。
獣化した姿が可愛らしい黒うさぎだというのがよく分からないが、生身の人間が相手をするのは不可能に近い。
もちろん動物園で武装なんかしていなかった弟が、ここまでやったのは驚きだった。けれど無傷で済むとは思えない。
途端に血の気が引いて震えてくる。
「クレッド、大丈夫なのか? どこにいるんだよ! なあ!」
「……ははっ、あんた相変わらず弟が好きなんだな。妬けるぜ。へーきだって、大した怪我してねえよ。だってあんたに嫌われたくねえもん、俺」
「あ? ふざけんな! 本当なのかよ、あいつに会わせろッ」
奴のふざけた態度が俺の怒髪天をつき、感情に任せて奴に襲いかかる。
しかしひ弱な俺がこのガチムチに敵うはずもなく、あっという間にソファの上に背中ごと押さえつけられた。
重い体重がのしっと腰の上にかかり、もがこうとする両手首を奴の手に掴まれる。
「離せ、この野郎! 離せってば!」
「……なあ。なんであんたってそんなに可愛いの? セラウェ……今二人きりって分かってるか?」
鋭い黒目がじっとりと俺の心を覗こうとしてくる。
大声を出して暴れてもビクともしない。これはまずい。
「気色わりいこと言うなっ……退けよクソッ」
「嫌だね。いっつも聖騎士に独り占めされてんだ。俺にも少しぐらい触らせろよ」
奴の手がそろりと服の下に入ってくる。
手のひらで撫でるように触られて、全身に鳥肌がたった。
なんで俺は今、こんな目に合ってるんだ。
記憶を失ってから、何人の男に言い寄られたか分からない。
「い、やだ……! やめ、ろ……っ」
「ああ、泣くなよセラウェ。あんたを苛めたいわけじゃねえ。可愛がりたいんだって、俺も」
頬をそっと撫でられて固まる俺は、恐る恐るナザレスを見上げた。
「だってさ、あんたいつもあの弟と幸せそうに笑ってただろ? 俺のことなんか目もくれないで……まあうさぎの時はすげえ可愛がってくれたけどな。それは嬉しかった、うん。……でも今はどうだ? あいつと恋人同士じゃねえんだろ。だったら俺も遠慮しないでいいよな?」
男は真剣な眼差しで俺を見下ろしている。
何勝手にしゃべって結論出してるんだ。
あの若い騎士にしてもそうだが、たとえ俺が弟の恋人じゃなかったとしても、俺にも好みがあるだろう。
「ざけんなよ、だいたい俺は男に興味なんてねえんだよ! 弟がいてもいなくても、お前らと付き合うわけねえだろ!」
思いっきり叫んで意思表示をし、若干すっきりした気持ちになった。
といつもこいつもふざけるな。
そう思いながら、高ぶる気持ちと共に奴を睨み付ける。
「ふうん、そっか。まー今はそう言うけど、将来のことは分かんねえだろ? だってほら、あんた何もないとこから弟のこと好きになってんだからさ。……それって単に同性好きになるより、ハードル高くねえ?」
……なんだこの獣は。
全然堪えてねえ。話が通じないのか? まるで俺の使役獣みたいだ。
そうだよ、人間ならまだしも、人外にまともに説いたって仕方がないかもしれない。
こいつ元々ストーカーだったっていうなら、100%やばい野郎だろうしな。
「おい、もういいからちょっと退いてくれ。……嫌いになるぞ」
じっと瞳を見やり、なるべく凄みを出して言った。
するとナザレスは一瞬考えながらも、やがてぱっと俺の手首の拘束を解き、また不敵な笑みを浮かべた。
ソファの隣に腰を下ろし、俺の体を引っ張り起こそうとする。
「そんな冷たいこと言うなよ、セラウェ。ちょっとした遊びだろ? まぁ本気だったけど」
「うるせえ。今度したら嫌いになる。絶対大嫌いになるからな」
「ああっ、分かったよ。頼むから連呼すんな。すげえ来るわソレ」
苦笑いしながら俺の頭をくしゃりと撫でてきた。
おい誰が触っていいと言ったんだ、勝手なことしてんじゃねえ。
あまりの疲労のせいで、そう文句を言う気力もなく肩を落とした。
……クレッドが心配だ。
怪我してないだろうか。今何をしてるんだ。
きっと俺の身を、ものすごく案じているだろう。
「なあ、何考えてんの? セラウェ」
「弟のことだ」
「へえ。優しいな。あんた根っからのブラコンなんだな」
「悪いか」
「いいや、悪くはねえけど寂しいなぁ。でもさ、今はそういう『好き』じゃねえよな?」
わざとらしい視線を送り、顔を覗きこもうとするナザレスをにらみ返す。
「何がだ。どういう意味だよ」
「ははっ。分かんねえ? だから、セックス出来るっていう好きじゃないよな、ってこと」
はっきりと告げられて、俺は沸騰しそうになった。
治まったと思った熱がぶり返していく。
「そ、そ、そっ、うるせえ! セクハラだぞてめえ、この痴漢野郎! そういう話題やめろ!」
「なんで? ああ、あんた昔はうぶだったのかあ。それも十分ソソるけど、すでに弟とエッチしちゃってるんだよな。たっくさん」
にやにやしながら顔を近づけられ、必死に避ける。
何故こいつにそんな事を突きつけられなけりゃいけないんだ。
ていうかまだ分からないだろ。キスだけかもしれないだろ。
「……あ、黙っちゃったな。恥ずかしかったか? ……でも、ということはだ。あんたにその気がないんだから、まあひと安心だな。そこでなんだけど、俺から提案がある。慣れっていうのは中々消えないもんだろ。もしそういうムラムラした時が来たらな、俺に言ってくれれば練習台にーー」
「うっせえお前もう黙っとけ!! なんだ練習ってふざけんな! 俺にそんな破廉恥なこと出来るわけねえだろうがッ! いいか誰ともだ!!」
声を張り上げて血管をぶち切れさせ、獣の戯言に切り返した。
ナザレスは肩をすくめ、残念そうに笑ってみせた。
「ちょっと言ってみただけだろ、本気で拒むなよ。つーか弟も泣くんじゃね? それ」
眉を嫌らしく上げて厳しい一言を浴びせられる。
ぐさり、と胸に突き刺さった。
いや、なんで俺が傷つくのか分からない。
確かにこんなことを言われれば、傷を負うのはクレッドのほうだろう。
俺達が恋仲だったと俺が知ったことに、弟はかなりショックを受けていたように見えた。
きっと、俺が真実を目の当たりして絶望すると思っていたのかもしれない。
そんなことはないのだ。
まだ様々な問題に対する答えは出せないが、俺はそれでももう一度クレッドに会いたい。
顔を見て、話したい。
あいつを避けるなんて、手放すようなことなんて、もうしたくはなかった。
そうだ、もう離れたくない。
この気持ちは俺が昔から持っていたものなのか、恋人だったから自然にそう思っているのか、はっきりとは区別出来ないでいた。
けれどいずれにせよ、感情そのものは嘘偽りない本物なのだと、俺は知っていた。
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